2015年2月7日土曜日

街を歩いて思うこと

昨日、アメリカの家に帰った時のおみやげ探索に街に出た時に改めて感じたことがありました。それは障害を持った人が街を歩いていることの少なさ。

勿論、障害には目に見える身体障害だけではなく、なかなか目に見ただけではわからない精神障害も含まれるわけです。その辺りの詳細な統計や解説は内閣府の作成している障害者白書にきちんと解説が載っておりますが、身体障害者366万3千人、知的障害者54万7千人、精神障害者323万3千人と言う数字からすれば本来、身体障害という「程度の差」こそあれ目に見えるレベルの障害がある人は日本に限って言えば約三十人に一人は居るはず。

勿論、若年者でも高齢者でもベッドから動けない方なども含めれば表にはなかなか出てこない人達もいるわけで、その方々を差し引かなければなりませんが、街を歩いて居て、車椅子や杖をついている人達が例えば自分の乗っている地下鉄車輌に居るのか、街中を歩いていてそういった人達が居るのか、バスでは、デパートなんかでは?と考えると、とても三十人に一人というパーセンテージが我々の日常の生活に反映されているとは思えませんよね。

やはりそういう事態が出現するのはバリアの存在なんではないかと考えてしまいます。肉体的バリアは勿論、精神的バリアも然り。
21世紀の日本においては多くの「物理的なバリア」が取り除かれていますし、少なくとも取り除かれるような努力がなされていますが、それを運用する側の我々市井の人のソフトウェアは自分も含めてやっぱりまだまだ成熟していないなと感じます。「さり気なく」個人に被せられたハンディを取り除き、平等化すると言う行為の普及にはやはり長い長い教育というものが必要なんではないかと。

自分の息子の知的障害の存在はアメリカに居ると実に何時もそれ自身を意識することが殆ど無いんですが、日本に帰ってくるとそうは行かなくなる場面が多いというのが実感です。障害というのはいつ何時自分に被せられるか誰にもわかりません。
既にやってきている超高齢化社会において、障害がある人達がこれ以上限られた場所に閉じ込められないように、可能な限り自由に出歩けるようにしていくことは、明日の「己自身」の生活を選ぶ過程そのものではないかと考えています。

障害を持つ人が溶けこむように自然に生きてける社会こそ本当に文明化された社会だと思います。

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