大学院を出た段階で、そこに行った多くの人はいわゆる博士号というものを取得しますが、通常それは高度に専門的な「人間の持つ知識のうち、極一部の分野」に関しては多くの市井の人に比すれば比較的突出した知識や経験を持ったというある種の資格証明を得たことを示唆します。
では、その専門性を得たことで次に待っているのは何かということなんですねが、殆どの人はその資格証を手に企業の門戸を叩くかアカデミアで生き残る道を選
びますぼうとします。
しかし景気の波の上下動で企業の門戸は不定期に閉ざされたり開いたり。更に残念なのは大学院で学んだことは企業にとっては使えぬ知識だとか、大学院に行ったせいで逆に使いにくい人材だとか言われて門戸は閉ざされたままというのも多いわけです。更には日本の大学院の入試というのはまあ、大学の選抜試験と違って、一般的に言われるトップ大学のレベルでも「甘い」ところが多くあるため、企業側が「学歴クレンジング」が行なわれたXX大学大学院卒!というラベルを(特に近年)全く信頼しなくなっています。
結局は企業と繋がりのある教授と企業の「出来る子紹介」とか「よろしく頼む!」というような流れが就職を決めたりすることも多く、一体苦労して取得した「博士号」は何だったのかという話になることもよくあるわけです。
企業への就職では上のようなこともありますが、では果たしてそれを選ばずアカデミアの方を狙ってみたらどうなるのかというと、、、今度は上の方に高給取りが大量に詰まっているせいで、これまたほとんど教職を正規に取ることは夢のまた夢のような狭いステップを注意深く登っていかなければなりません。しかしながら、研究室内の力関係や教授の突然の移動や死去にともなって登るときに使ったはしごをおもいっきり外されるなんていうことは世の中「ザラ」にある訳で、こちらの方もそう全てが順調に行くわけではありません。
最近は日本の場合、大学や研究所関係では特任助教や特任准教授という形で5年などの期限を与えて正規職への道へ挑戦させるのがアチラコチラで行われていますが、この挑戦権を与えられた若手達が、その制度をセットアップして上から睥睨している形になっている正教授達の多くより実力が劣るかというと話は必ずしもさに非ず、実は大学に在籍している正規教授の方には既に意欲も知識も錆びついちゃって教育から研究から「使い物にならん」人達も腐るほどいるんですね、これが。w
挑戦し続けるべきは実は正教授のはずなんですが、助教、准教授、教授という階位の階段を登って行っただけで実質的に資格審査に当たるものを経ずに横滑りのままで教授になってしまう人達の何と多いことでしょう。少なくとも私が出た医学部の教授は(私が学生当時は)学生の私から見ても「冗談キツ〜。幾ら金ばら撒いた?w」というようなのが沢山居ましたね。
教授職におけるテニュアの制度なんてさっさと無くして、出来る奴に下からドンドン圧力かけさせてやれば良いんですよ。ほんとに。幾らふんぞり返ってやっていても、業績のある若手が下から上がってきたら数値評価で比較して下に道を譲る。しかも、最短で5年、最長で10年くらいで。そうすれば人材の流動性も嫌が上でも(強制的に)高まるし、上の人間も肩書きなんてクソほどの値打ちも無くなて常に「頑張る!」状態でないと生きていけなくなるはずなんですけどね。
その教授等の職の評価の方法はやっぱり、アメリカ式に研究、教育、学内雑事etc,.のコンビネーションになるかとは思うんですけど、教育教授と研究教授を最初から分けるというのも方法論的にはありかなという気もしますが、このあたりの議論は文科省あたりではどうなんでしょうかね。
とにかく、既得権益の部分を抑えて下から出てくる芽を押さえつけている多くの「死骸w」を取り除かないことには「出来る若い人たち」の挑戦意欲自体を消し去るリスクも大きいわけで、それが日本のために良いことであるわけがありません。
流動性こそが日本のアカデミアをより良くする鍵だと自分自身は固く信じているのですが、日本の「硬直化したシステム」の下ではそういった理想論はナカナカ芽吹いていかないのもまた事実です。
日本でよくあるA大学卒、A大学大学院卒、A大学助教、A大学講師、A大学准教授、A大学教授(たまに助教の年代周辺に海外で一、二年教室の紐付き留学を経験w)とかいう、流動的な研究環境にあるアメリカの大学から見たら「なんかA大学に憑依されてるんですかこの人?」とかいうような履歴書の上から下までコピペして年代と職名のみ書き換えればいいような教授の何と多いことでしょう。それは地方も中央の大学もほぼ同じような同族経営、身内優先の論理が蠢く気味の悪い大奥の世界。
ワタシ的には殆どブラックジョークなんですけどね、、、。
アメリカで見てきた多くのチャレンジャーは別に日本人にかぎらず、本当にいろんなパターンとパスウェイを経て挑戦しては去りまた挑戦しては去りという感じで新陳代謝が非常に盛んだという印象しかありません。私の周囲もそして伝聞でも、、、。
そして、挑戦を繰り返し、また次の所へ去って行くことがアメリカでは敗北ではない、というのがかなりのコンセンサスを得ているとアメリカにおける外人の私には思えます。流動性、流動性、流動性。これこそが日本を変えるキーワードだと堅く信じます。じゃあ、戦い敗れて去っていく教授たちはどうするかというと「他の大学に応募する」というのでいいと思いますよ。本当に使い物になるのだったら必ずどこかが拾うはずですから。そうでない方は、、、。残念賞。他を当たってください。
例えばシステムとして半強制的に「
少なくとも正教授の半分は外部の大学を卒業した人間をどの学部も招聘しなければならない」とするだけで
劇的に人的交流・ハイブリッド化は進むと思うんですが、如何なもんでしょうか。いやせめて3分の1、いや4分の1、、、どうやって抵抗勢力の反乱と陰謀を殺すのか。敗戦か明治維新並みの大変動なんてもう起きないままに日本は萎んでいくんでしょうか、、、。良い人を外から内に入れるためには情実のレベルが下がり、実績で呼びこむために海外から日本人や外人を呼びこまざるを得ないし、地方にとっても中央の大学で椅子に座りきれなかった優秀な人を呼びこむ良いチャンスですし、これが30年も続けばいい感じでシャッフル出来ると思うんですけどね。どうでしょうか!?(当然予算配分とかで文科省はヒエラルキーを超えた「人材へ直接弾を当てる」ような配慮が必須ででしょうが、優秀な官僚が権益を超えてまじめに取り組めば本当は結構良い制度が出来ると私自身は信じているんですけどね。)
今日はちょっと長く書きすぎました。orz しかも全然言いたいこと書ききれてないし。書きたいコンテンツが前後で二分割されてるし、小論文に出したら0点どころかマイナス点ですなこりゃ。w
文科省のほうにWさん経由でこれ推敲して送ろうかな。まあ即、屑籠行きか。ジャンジャン。www