2008年12月3日水曜日

医療崩壊とは言いますが

昨日も日本のニュースを読んでいたら、また妊婦さんが病院に引く受けてもらえず未熟児が死亡、、、と言う様な記事が出ていた。医療の崩壊、特に産婦人科と小児科の崩壊が叫ばれてもうずいぶん長くなりますが、疑ってみるべきはまずは多くの新聞社配信のネット記事の内容が本当に字面通りなのかなのかという事が一つ、患者の側の変化はどうなのかという事が一つ、そして医師の側の変化はどうなのかという事が一つだと思う。
先ずは報道。売文屋が何を書いてそれを誰が買おうが知った事では有りませんが、ここで考えて見ましょう。
出生数の近年の推移を統計で見てみると百万人プラス十万人前後というのがトレンドのようです。つまり、何のかんの言っても、日本では年間少なくとも百万回の分娩が行われているわけです。そして周産期死亡率は世界各国の中でトップクラス、妊婦の死亡率の低さでもトップクラスです。妊婦の死亡率はデータを見れば解るように、年を追う毎に下がってきており、この4という死亡率を100万件の出生に換算すれば、約40人の方が亡くなられている事になります。高齢出産や、その他のハイリスクの妊婦さんを全て入れてこれだけの妊婦死亡率を達成できるという事実。これは私は物凄い高度なレベルの医療だと思うのですが。
前回の脳出血を疑う妊婦の「盥回し報道」の件でも鬼の頸を取ったような記述をしていたが、そのうち実際にどの病院が「責任を持って」分娩と同時にその頭部出血を疑われる妊婦を受け入れる事が出来たのか、詳細な報道などというのは全く続報として見かけない。全く無責任極まる「いつもの」センセーショナリズムの一環だ。マッチポンプの売文屋。自分の名前を記事に記した上で責任ある報道というものをしてほしいものだ。(万一にもその能力があればの話だが。無理なのは解っているので。(笑))

患者さんの方はどうか、患者の質に変化は無いのだろうか。まず、私は患者サマという様な呼び方を始めたアホとは一緒の目線に立ちたくないので、意地でも患者サマなどとは呼ばない。医師の側から患者に距離をとってどうするというのだろう?医師にとって患者は自分の家族の一員と同じレベルで治療しないといけない相手であり、もしその相手が自分の家族だったら無条件にベストを尽くす事は患者サマ等という愚にもつかない名称に無い知恵を絞らなくても、理に適っていないかとおもうのだが。医師でも当然のようにいつでも患者の側に成り得るのだ。その時に医療関係者から患者サマとか呼ばれたら、そいつを殴ってやろうかと思う位嫌いな呼び方だ。生理的に受け付けないし、自分が患者になったとき「様」付けされてまともで居られる神経というのが理解できない。医師も患者も全く対等な関係であり、医師は患者から病気だけでなく多くを学ばせて貰っているのだ。どちらが上だという事も無く、患者も医師にとっては商品としての客ではない。(こんな事を考える暇のある下衆な経営者にとっては顧客なのでしょうが。)

本当に、今思い出すだけでも人として、頭が自然に下がってしまう様な多くの患者さんに出会う事が出来た。慢性疾患を抱えた方、当時の医学では治療の方法が無く決然と、そして従容として来世に旅立たれた方。その立派な最後をお見送りして涙が止まらなかった方。入院の時に子供に頭蓋内悪性腫瘍が見つかり、時間とともに症状が急速に悪化して行き、元気に走り回っていた子供が最後は冷たくなって病院から出て行った時の事、初めて間近で見た新生児の出産介助での感動、人の生と死が文字通り隣り合わせの日常であるからこそ、その密度の濃い時間は多分、それ以外の職業に疲れた方とは異質の経験が医師を待ち受けているのだ。他の仕事も患者さんが他からお話を伺う事によって「これは面白そうだ」とか「身体が二つあったらこれもやってみたいな」というような職業も幾つかあったが、医師に初めてなって経験するその日々はジェットコースターの最前列にシートベルト無しで乗る様な緊張を強いられる日々でした。
しかし報道される中には私があった多くの患者さんの中には余り見受けられなかったような人物も居るという事のようだ。まあ、売文屋の書いた文章なので8割引いて読むとしても当然、変な人間はどの社会の中にもある一定の割合で居る上に、病魔は人の性格を選ばず襲ってきますので、そのような人達が病院でオカシナことをするというのは昔からあることだったのではないかと思います。昔であれば意志の側の「権威」というものがそういう輩を叱り付ける事によって話は「終わり」だったのでしょうが。今の時代は患者サマとそれに奉仕する医療機関という図式を時代が総掛かりで作り出した為に一部の勘違いの大きな連中が数を伸ばしてきたという事なのでしょうか。(成人式で可笑しな格好で騒ぐ、猿達を思い出してしまう。)モンスターなどではなくただひたすら教育の効果が及ばなかった「馬鹿」。それ以上でもそれ以下でも無いと思いますが。ただこの手の人達が医師や看護職の人間を疲れさせるのは間違いなく問題だと思います。どうすべきか、、、。難しいところですが、幾つか簡単なフィルターをかけていくというのはどうかなと考えます。どんなフィルターか、、、。いくつもある問題とそのフィルターの関連の中から一つ出すとすれば、救急車の有料化を先ず挙げます。これで少なくとも救急車をタクシー代わりに使って本当に必要な人の命を奪う似非患者の来院を大幅にカットする事が出来ると思います。
包み隠さず一言で言えば「医療には金がかかる」という事実を周知徹底する事だと思うのです。その事実が税金からの徴収であれ、実際に払う保険料であれ、直接払う医療費であれ、患者さんには大きくのしかかってくる事実なのです。この前、大きな病気になったとき本当にそう思いました。先進国であるという事は、そうでなかったころには出来なかった「医療に金をかける事が出来る事が出来る国家になった」という事ではないでしょうか。

ここに医療にお金をかけなくなった国家の一例があります。何が起きたかはお読みくださればわかるかと。
ニュージーランドの医療行政の崩壊

医療行為を通じて理解できた事は人の命を助けるという行為にはまさに「時間」と「金」と「人」の三要素が大きくかかってくるという事でした。時間は患者さんのリハビリまで入れた来院から退院そして、フォローアップケアまで入れた時間、全ての流れ。お金の部分は医療機器、病院施設、医師、看護士、介護士、リハビリセンター、事務、薬局そして施設の維持に働く方々。人の部分はそれぞれの部門で働く人達に要求される患者さんたちに対する各々の膨大な人的、知的貢献です。医師も本当に生死の境を彷徨う方をケアするために二日も三日も家に帰る事が出来ないような状態で、家から嫁さんに着替えの服を持って来てもらったりしながら、出前の飯を胃に掻き込み次のもしもの瞬間に備えるような緊張した日々の中で、短い隙間を縫って当直室のベッドで泥のように眠る事が始終あります。そしてその中で次の学会の公演準備や症例報告のまとめをしているのが多くの勤務医ではないかと思います。売文屋共の企みに少しもその志をそがれることなくこれからも真っ直ぐに誇りを持って日常診療に当たっていただきたいと思います。
テレビに出てくるようなイカガワシイ豊胸専門、チンコの皮取り専門の美容整形外科や、脂ぎった顔をして次の選挙でどの党を応援するかは私の胸先三寸というような顔をしてコメントをたれているような日本医師会のバカ、そして頓珍漢な事を気取って縷々述べる香山リカのような人間ばかりが医者ではないのです。

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