同じ物、同じ事を表現するにも自分の持っている単語帳が分厚いほうが当然表現豊かにオブジェクトを描出できるわけですから、単純な言葉を重ね織りして何かを象徴的に表現出来る「散文的な」表現方法を使えるような、極めて限られた一部の人達しか持っていないような才能の開発に頼るよりは、単純に勉強時間を増やすなり何なりして語彙を増やす方が「確実に」物事を素早く多様に表現できるはずです。(無骨にはなりがちでしょいうが、、、。)
こういうのは読書や能動的な国語学習で得るくらいしか方法はないと思います。例え会話によって知らない言葉を聞いたとしてもそこにそれを学ぶという姿勢がなければ意味を聞いたり調べたりすることはないわけで、やはりそれは能動的な学習の意識が必須でしょう。あとは読書、これはもう文字通り読むこと自体が語彙力の検定をしているようなもので、小学生の頃は読めなかった本が中学生では読めて、中学の頃はとっつきにくかった本が高校では楽々と読めて、、、というように段階を追ってその語彙力が増やされていくことを確認でき得るわけですが、ここでも当然のごとく辞書を引くという作業がそこに介在しなければ、最悪「誤った意味付け」を与えたまま成人になってしまう(中には調べも考えもせずにそれで終わりなんて言うのも沢山居そうですが、、、w)ことで、社会に出てから恥をかくことで再学習を強制的にさせられることも有るわけです。
なんでこんなことを書くかというと、うちの家族と買い物に行ったりした時の見たもの、観たものに対する表現の殆んどが「可愛い」か「綺麗」のどちらかの表現でしか無いことにムットすることが多いからなんですよね、、、。
まあ、家族にしてみればおとっつぁんがまた訳の解らんことで腹立てとるの~、位の事なんでしょうが、俺的には到底看過できません。娘達にとって第一言語は既に英語ですから、それを使って物事を多様に表現できているような感じなので(会話も文章も)それはそれで、まあ日本語の方はハンディということで許せる面もあるのですが、問題は嫁さん。
なんか見ると、前述の2つの単語くらいしか出てこないんですね。時々そのことを揶揄するんですが、馬の耳に何とかというやつで効果はゼロ。もう少しくらいは知恵を絞って、知恵が無いなら知識を絞って言葉使いに彩どりを添えてほしいところなんですがね、、、。本は沢山読んでるのにな。「知らない世界をもっと知って世の中の不思議を知るためにノンフィクションをもっと読め!」と言うと、「自分が好きなジャンルを押し付けないで」と言葉を返してくるのでどうしようもありません。水に絵を描く様な努力とでもいいましょうか、、、。それでも教育って大事です。orz
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