2010年9月13日月曜日

チンポコの話

物事を伝えるときに使う言葉の選択によっては、当然のようにその情報の受け手に大きな誤解を与える危険を常に孕んでいる。まあ、余りにも自明なことなんでしょうが、、、。
例えばある言葉を使っても、その言葉に対して共通の言語感覚と理解がなければ当然お互いの脳の中に出てくるイメージが違っているわけでその最も極端な例が、外国人との会話。向こうにとってはこちらが外国人で、同じ単語を使うにしてもお互いに脳に思い浮かべるイメージなんて言うのはほぼ同じものであるわけがない。それは勿論、同国人で同じ言語を使っている者同士でも大なり小なりそうでしょうが、、、。
結局は、共通の認識を出来るだけ少ない説明で互いに共有しあえる者どうしが群れを作るのが普通の社会なのかなという気がします。ましてや説明しても理解出来ない、若しくは説明しても全く訳がわからないなどという状態でお互いが親密になるなどということはまあ通常、セックス以外は無いような気がします。(それも、一時的なものでしょうが。笑)
まわりくどい事になってしまいっましたが、結局今日書きたかったのはマスゴミと受け手側の齟齬の大きさが次第に大きくなってやしないかということ。20世紀と違って、今では一つのことでも、それまでは考えられもしなかったような角度から多くの人がつつく時代になったということ。真偽の程は受けて判断に任せられ、情報源も様々、その解析手段も様々、それに対する論評までありとあらゆるものがネット経由でただで探し出せる。使う言葉の定義というのは、大上段に構えたマスゴミ様が設定していた時代はもうとうの昔に伝説の過去の時代になってしまったというのに。

嗚呼、それなのにそれなのに(笑)、世の中には未だ新聞様、テレビ様の一方向の情報を鵜呑みし、かつ昔のままのマスゴミの定義で情報を受け取る日々を過ごしている方々がわんさかいるという喜劇。実家の両親もこの口です。話を聴いていると両親にとっての世の中というのは、家から半径数キロの世界なんだなというのがよく判る感じ。時事問題については新聞に書いている事とそっくりの意見。でも、こんな人達はやることもないので選挙には熱心に行くわけで。

あれ、タイトルのチンポコの話はどこへ行った。
しょうが無いので次に書くということで。


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