2024年12月31日火曜日

今年も年末感の無い大晦日

2024年(令和6年)の大晦日は隣でテレビ(主に紅白)を視ている嫁さんの主導によって終了。

夕食終了後には丹波の黒豆を出してくれました、その数時間後、夜の10時前には年越し蕎麦を家族に配り今年の我が家の食事は終了。紅白歌合戦には嫁さんの大好きなB’zが登場し、会場の異様な盛り上がりを食い入るように見つめている姿がありましたが、タダでこんなもんが視れるのは彼女にとってはラッキーな年末プレゼントだったことでしょう。

紅白も最後で白組の圧倒的な勝利に終わり、蛍の光を合唱した後「ゆく年くる年」風の画面に切り替わっていたようですが、実際にはその前後に行われていた芸能人達のミニ・マラソン大会等を食い入るように視ていた時間もありました。

しかし、ウクライナでは今も空襲警報が鳴り響き、パレスチナでは毎日無辜の人々が糞ハマスの起こした誘拐・殺人の影響で絶滅の危機にあるというのに、ここ日本は「今年は」のんびりしたものです。

とは言え、この日本も一見のんびりしているように見えるだけで、近所に居る…というか隣の赤い国々のトンデモナイ面々が己の保身のために織りなす碌でも無い侵略政策の数々が、世界の国々に余計な緊張を撒き散らしていますが、改めて社会主義とか共産主義がとてつもない糞ポリシーだというのを世界に見せつけた年になりました。

人間が考えた「~イズム」なんていうのはほぼどれも碌なのは無くて、こうあって欲しいという姿には何れも程遠いもので継ぎ接ぎだらけ、民主主義と言われる形態も一枚薄皮を捲れば中身は殆どが残念なものばかり。それでも、共産主義や社会主義等と比べればまだマシだからこっちを選んでいるというだけの話。

横で楽しそうにテレビを視ている嫁さん達をジッと見ていると、80年前の同じ場所では毎晩空襲に震えながら逃げまどっていた日本人の一群が居たのだという事を考えると、まさに隔世の感がします。

しかし、あと20年で1世紀になろうという日本の平和。果たしてきちんとその貴重な時間を延ばし続けることが出来るのでしょうか。平和は脆く、戦争の開始という行為自体は恐ろしいほど容易な世界の情勢を見ていると、こういう静かな「何もない年末」と云うのは本当に貴重なものだと思えるのでした。

2024年12月30日月曜日

年末には別の意味で「悲劇」がある

今年最後の当直でした。

去年までと違い、最近の当直は精々あっても月に三回。ほとんどは二回までで済むようになっていて、外部から大学の先生を当直に雇う様にする事が殆どになっています。アクティブな先生なんかは60歳を超えて月に8回以上とか恐ろしい事をしている人も居ましたが、次第にそのような事は許されない時代になってきました。

とは言え、何だか今日の当直はキツイものとなりました。朝一番に病棟に入った瞬間に心臓マッサージをしなければならないような案件が入り、一時間ほどの格闘を行ったにもかかわらず、命は戻ってきませんでした。

その後もインフルエンザAによる熱発患者が連続で報告されるわ他の病棟で死亡確認を依頼されるわで真っ当に眠る事も出来ませんでした。これ、宿直なのか当直なのか訳の分からない状態ですよね…。まあ、部外者にはどうでもよい事なんですけどね。w

さて、夜になって遺体を引き取りに来られた業者の方とエレベーターで偶々居合わせることになりましたが、実は夜になって迎えに来られる迄に随分と時間が経っていたのでした。

電話で最初に伺った時には3時間以上もお待ちいただく…等という事を言われていたのですが、実際に来られたのは2時間30分を少し超えた頃でした。理由を伺うと「名古屋市内の業者の全ての車がフル回転して御遺体を運び続けても追いつかない」との事。

個人的には「特に冬だからといって今日に限って増える理由は無いはず…」と思って訝しんでいると、業者さんが一言「警察からの依頼が多いんですよ」とサラリと言われました。「?」と思って考え込んでいると「田舎から帰ってきた御親族が家で亡くなられている御両親、御親族なんかを見つけて警察が動くというのが多いようです」とのこと。

思わず、えええっと声に出してしまいましたが、よくよく考えると普段は繋がっていない年老いた家族が、物理的に家に戻ってきた子供達によって「御遺体」として発見されるのがこういったシチュエーションになるのは当然ありやな…と納得してしまいました。

年老いていなくとも「一人で生きる」という事はこういう最後を迎える可能性が高まるのだという事も受け容れなければならないという事なのだという事を改めて理解させられた2024年最後の当直の寒い夜でした。

しかし、再会のために家に帰ってきたら親が家で…という状況で年末を迎えた方々の事を考えると言葉も有りません。

2024年12月29日日曜日

カーター元大統領死去

カーター大統領の死亡が確認されました。

あの大平首相の時代に活動していたと考えると、恐ろしく昔の話だな~という実感が湧き上がってきます。あの!東京サミットで居並ぶ首脳陣はサッチャー、シュミット、アンドレオッティ、ジスカールデスタン等という既に近代史の教科書に出て来るような人々な訳で、その年季の入り方が解ります。

未だ私は小学生でした!w

私にとってのジミー・カーターというのは南部ジョージアのピーナツ農家の出身で、そもそもが近所の人達と集まって大工仕事をしたりするような人、かつワシントンのいわゆる「established」と言われるような連中とは対極に居る人という感じで私の中学時代に彼の事をニュースで視ていた覚えがあります。

その次に「私にとって」印象深い彼の政治家としての達成事項と云うのはイスラエルとエジプトの和平合意。未だに両国には精神的な溝や政治的に強烈な駆け引き、裏世界での暗闘等は普通に有るにしても、合意以降エジプトとイスラエルがダイレクトに戦火を交える事は無くなった訳ですから、外交では中国との国交締結も含め大きな仕事を成し遂げた人だったと思います。

ただ、経済への貢献は最低だったのは中坊の私でも連日のニュースで解っていましたし、イランの米大使館人質事件での汚点やソビエトのアフガン侵攻を許したのもアホの極みでした。侵攻後にソ連は戦場で地獄を見る訳ですが、以降のテロ組織の拡大と暗躍、延いては9/11へと続く暗くて長い道の素地の敷衍を許したのはお人好しの甘い見通しでした。

この後、レーガンという鷹そのものの誕生が準備され、彼が悉くカーターと反対の事を行ってアメリカの経済と国力が回復していったわけですが、ボロクソに言われて引退した筈の後の彼の言行は逆にいつまでも残る「善き人」としての側面を輝かしいものとして懐かしむ人々が多かったのが本当に印象的でした。

James Carter Jr. 1924年10月1日 - 2024年12月29日 100歳の天寿を全うされました。

2024年12月28日土曜日

帰ってきて早速また忘年会

昼頃にはサクッと名古屋まで戻ってきました。

山に泊まれなかったことは残念ですが、こういう事は命あっての物種です。次回チャレンジするときはやっぱり四駆を借りていくか、四駆を持っている人間とキャンプに行くのが良いのでしょうが、そんな人間を周りに直ぐに見つけられる環境にはおりません。

取り敢えずユックリそういうチャンスを待って「人」が現れるのを待とうかと思います。^^

そう云う訳で今回はキャンプの件は終わり、ここからは今晩の後輩との酒飲み会の話です。実際、一昨日から病院の後輩任せで店が脳内リストから抽出されるのを待っていたのですが、この時期はどこも当然の様に一杯。何時もはもう少し下手に出て来るお店も今日ばかりは入った瞬間「ご予約は?」てな感じで、所謂「一見さんお断り」的な雰囲気を醸し出してくれていました。

まあ、これがダメでも覚王山があるわい!くらいに思ってグルグル回って居たらナント!昨日の岐阜のデジャブが登場してきました。そう、煙力が眼の前に出てきたのでした。ここに首を突っ込んでみると15分ほど待っていただければ入れます!と言われたので、外で待っていると2分程度で「ハイ入れますよ!」という事になりました。

私自身は昨夜からの連発ですけど、彼にとっては好きな焼肉を食べられるという事で私が我慢すればよいだけの話。ここでビールをガチッと飲んで、肉をしっかり腹に詰め込んだところで二次会の覚王山へ移行し泡盛43度で呑み始めたのでしたが…。

彼には濃すぎたようで、鼻を近づけただけで”ウプッ”という感じ。それでも頑張って薄めながら吞んでいたのですが、暫くすると「もうこの辺りまで酸っぱいものが上がって来てます~」等と言い始めたので、ここでストップ。

ナント、彼は私にゲロ袋を準備してきましたというのを見せてくれました。あと、口を拭くためのウェット・ティッシュも。何というか大笑いしてしまったんですが、彼は真面目なんですね~。w

2024年12月27日金曜日

キャンプの為に長野へ向かうも…

今日は仕事を終えて前から決めていた長野方面へのキャンプに向かいました。

病院にそのまま置いているキャンプ道具の箱をサクッと車に載せて、何時も準備しているレトルト・カレーもそこに入っている事を確認した後北に向けて出発しました。

最大の心配は路面の状況。私の車はFFの上にタイヤは夏用タイヤ!人生で一度もスタッドレスタイヤなどというものを装着したことが有りません。メリーランドやバージニアに居た頃も雪が降ろうとお構いなしのサマータイヤで通してきた人間。そういう状態では平地では何とかなっても、坂道の上り下りではどうしようもない事は良く理解できています。

昔、ゴルフIIIに乗って居た頃にヤナセから代車で借りたオペルのベクトラに乗って朝の雪の山道を登っていき、目の前を軽の四駆がスルスルスルッとなんの危なげも無く走り去っていく姿に「勘違い」して己も行けるかと思ったら全く上っていくことが出来ず、逆に後ろにズルズルと滑り出してもう少しで崖下へ転落して死ぬ寸前でした。

結局、圧雪路・アイスバーンでは普通のタイヤを履いて四駆以外で坂を登ると「死ぬ」という臨死体験?だけが体験(トラウマ)として強烈に残りました。

という訳で、雪山には畏れを抱いていたので、道がヤバそうだったら絶対に近づかないと固く決めていたのですが、夕方までの段階では雪マークも無く安全そうだったのですが、義父を超えた時点でもうヤバヤバ。例えキャンプ地に入れたとしても、そこから安全に出て来ることは出来ないな~という感じの予報に変わってしまったのでした。

その時点でもうさっさとギブアップして、岐阜駅まで戻り適当な安宿を見つけて泊まる事にしました。

幸いにして一万しない程度の宿が直ぐに見つかったので、そこにアクセス。車は満杯でしたので、案内された近所の駐車場まで行ったのですが、この年末のこの時間帯…どこも空いておりませんでした。しょうがないので歩いて10分ほどの所へ停めてホテルへ戻り荷物を部屋へ入れて直ぐに夜食を食いに出ました。

すぐ外にはいろいろと魅力的な店が並んでいたのですが、眼に入った焼き肉の文字に引き寄せられて入ったのは煙力(「けむりき」と読むのだそうです)でした。

一人用でもきちんと使えるコンロが眼の前に置いてあり、強い火力でサクサクと肉が焼けます。次々と憂さ晴らしの様に肉を食ってビールを流し込んで岐阜駅前で夜を迎えました。
寂しーw
昨日の夜は二時過ぎに寝たために今日は早く寝る事にしてさっさと床に就き思わぬ場所での爆睡となりました。

行きの中で無理はしない!との己の心の約束に従った結果でしたが、まあこれで良かったのかな。次回の挑戦を待つ!という感じでしょうか。