2016年3月13日日曜日

変な人を当たり前と受け容れているか?

日本に返って来てずっと強い違和感を感じるのは同調圧力でしょうか。

日本に居ても”大学の中”に居ると余り感じない同調圧力ですが、一歩外へ出るとやっぱり「うーん」というのが正直なところです。とは言え、私が感じる同調圧力というのはやっぱり己の”センサー自体”が狂っているのかもしれません。

ごく卑近な例では、例えば地下鉄の駅で階段を降りるときに上から見える人々の頭。周りが本当に黒い髪(もしくは黒い髪を軽く茶色に染めただけ)の人ばかりというのが先ず正直な所オカシイと思うようになってしまったんですね。(例が悪いな。つまらない。w)
これってやっぱりアジアの中でもこれほどまでに先進国と言われる日本でまだまだ一見日本人の人達に見える人達で構成されているという不思議です。

見かけは似ていても実は中国人、韓国人、マレーシア人、ベトナム人、フィリピン人等間違いなくごっちゃになっているはずなんんですけどやっぱりその人達までも日本に来ると何だか日本人風になっちゃうという。なんか変なガスでも流れているんですかねこの国は。w

変わった奴がもっと街なかで堂々としていても良いはずなんですが、何だかそれを感じんのですわ正直な所。曰く「へんてこりんな輩」「変わった出で立ちの人間」を滅多なことでは外で見ない。ゲイも目立つ感じでは全く見ない。ホントにゲイやトランスジェンダーの皆さんはどこに隠れていらっしゃるんでしょうか?アメリカではごく普通にいたんですが、日本人にゲイが少ないというわけでもありますまい。

アメリカ居た時は人種は雑多な上にやってきた国もまたいろいろ。経済格差も滅茶苦茶、教育レベルも宗教的な背景もそれこそグチャグチャに混じっているのが普通だっただけに、日本に帰ってきて感じるこの同質性はやっぱり異様です。

病棟でもあるグループの人達の会話を聞いていると大の大人でも看護師同士が「XXですよね~!」の連発。
「そもそもそれ間違ってますから!」と訂正するのもアホらしいような会話が続けられるのをマスクの下で笑いながら実際のところこの手の人達に関してはいろいろと諦めています。 w

やっぱり小さい頃に考えられる限りの多様性のある場所で育って、己の意見をキチンと持つ教育を受けるということは違いを違いと思わないためにも大切なことだなって改めて思います。

一方で、そういった環境で育っていなくとも、ある一定水準以上の知性のある人であれば、正しい教育さえ施され経験を積めば十分それを感じさせないほどに人はダイバースなものを受け容れる人に育つと硬く信じても居る私です。

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2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

アメリカのジョークでこんなのがあるのをご存じではないでしょうか?

「通行人に溺れた人を助けさせるにはどんな言葉をかけるべきか?」というので、
国民別に有効な言葉があるというのです。

アメリカ人には「助ければ、英雄になれますよ!」
ドイツ人には「助けることが規律になってます!」
フランス人には「助けてはいけません!」
イタリア人には「助ければモテますよ!」
日本人には「皆が助けに飛び込んでいますよ!」
…こんな風に声をかけると、通行人が川に飛び込むんですって。(笑)

日本のはナルホド!って思いませんか?フランスのがいまいちわかりませんが。
日本は世間体や人の目を気にするっていうのをよく表してると思います。

small G さんのコメント...

このエスニックジョーク、幾つかバリエーションがあって実際はもう少し長いものもあるのですが、
フランスのは要するにそれだけ「ひねくれている」というところを言いたいのでしょう。w
(サーチされるといろいろと枝葉の表現が違うこのジョークが出て来ると思います。)

実際の話、こう言った際どいエスニックジョークは私は大笑いするのですが、日本人のところはあまりにもそのまま過ぎて。
私には寧ろ箴言に聞こえてしまい困ってます。w