2016年2月27日土曜日

切ない話

今日、たまたまうちの病院にバイトに来られておられる先生と応接ソファで向い合ってすわる機会があり、それぞれヨモヤマ話をしていたのですが、、、。

何気なく話した中で、先生の御父様のことが出てきたのですが、その方が八十過ぎで認知症になられて症状が悪化していく過程で、遂にはその御子息である先生御自身を認識することができなくなったと言うお話を伺った時でした。

先生のお話によると、御実父は先生との対話の中で自分の話している相手が医師であることを認識され「実は私の息子も医者をしておりまして・・・」ということをお話され、既に眼の前におられる医師である御自身のお子さん自体を認識されていないと言う話を伺いました。
その話を伺った時、他人事ではないと本当に切ない気持ちになりました。

人が老いて筋力が衰えていくように人の神経系も当然衰えていきます。
無論人によってはその能力を維持できる人も当然いるわけですが、それでも多くの人は何らかの意味で若かりし頃のような瞬発力は消えていき、過去の経験の蓄積や知識によってその欠損を補填したり維持したりしていくというパターンが多いわけです。

脳というのは実にデリケートなシステムですから、アルコールも含めた種々の薬物、加齢による細胞の老化、神経系に蓄積する種々の老廃物や異常物質、脳に栄養を送る大小の血管の梗塞や破綻などの種々の要因によってその能力を徐々に失い、それが水面上に現れて多角的にも認識できるような状況になるといよいよ認知機能障害等の名称がついてくるわけなんですが、私はそれは長生きの一つの代償だと思っています。

運転の距離が長くなれば、接触その他の事故、パンク等のリスクも確率論的に上がっていくのと同じ。
如何なる国においても、高齢化が当たり前の国では定年制の延長もしくは退職後の人生の受け容れ枠の拡大による高齢者の労働人口としてのの確保などをもっともっと拡充していくのは必須であると同時に、人が生まれ成長し、家庭や社会で重要な役割を果たした後、その方々を無事に安住の地へと導くのは社会全体の大切な使命だと考えます。

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