高齢者にとって食べる事はまさに命を繋ぐことです。
昔は食べられなくなったらそれをきっかけにして命の灯火が消えていくというのが普通でした。
今の時代はこの点に関しては長足の進歩を遂げており、たとえ経口で栄養が摂れなくともIVH、経鼻栄養、胃瘻等という方法で体に必要な栄養を補うことが出来ます。
しかし、こういった栄養補給の方法は新たな問題を産む事にもなり、今までは自然死という形で経口栄養を摂れない状態から痩せ細って亡くなるという昔ながらの死は激減し、本当に体の機能が「与えられた栄養を代謝し続けることの出来るギリギリの瞬間」まで持たせた状態でストンと腎機能、心機能障害で亡くなられるというパターンが増えることになりました。
医療サイドも、あれこれ手段を尽くせば本当に患者さんのQOL(quality of life)が下がり続けても、とにかく「呼吸と心拍動」だけは動かし続けるということも出来るようにはなりました。
しかし、現実問題としてその凄まじい状況を見て御家族の方が無理矢理の延命は望まれないという選択をされることがほとんどで、元気で生きていた頃の患者さんの「人としての尊厳」を傷つけないようにしたいと考えられる方が増えています。
さて、話は元々書こうと思っていたことからは随分と脱線してしまいましたが、私はまず補助栄養食であるゼリーを各サイズ、各味毎に十数種類食べてみました。その上で自分なりに味の癖と不味さ美味さを比較しました。
次にその量ですが、お年寄りにはこれはキツイなとかいうことも感覚的に理解出来ました。
会社によって味も違うことが解りましたし、これを知っておくか知らないかというのは患者さんにその味をおすすめできるかどうかということを知る上では大変よいデータベースを作れたと思います。
また、減塩食の不味さと糖尿病食の量的な少なさにもちょっと驚いたりしました。
あと、75gOGTTの砂糖水を飲む試験のえげつなさにも辟易でした。マズイとか言うレベルじゃなくて勘弁して下さいというものです。
更にトライしたのは患者さんに頓用で処方する下剤、、、。
実際にこれがどれくらいのドロップ数でどれくらいの感じで自分には効くのか、そしてその感覚はどんなものかというのもよく解りました。(もうしたくないです!w)
患者さんの持つ院内での「患者としての」皮膚感覚がどういうものなのかというのはアメリカの病院で入院した時によくわかったつもりだったのですが、導尿にしてもちょっとした事にしても、患者さんは我慢して医療従事者サイドに伝えないことも多いのです。
自分がその立場ならどうするか。そしてどうされたいのか。
そういう状況に自分を重ねて考えるということを「常に」心がけておかなければならないと思います。
2 件のコメント:
難しい問題ですね
家族には、いつまでも生きていて欲しいという気持ちは、
誰にでも湧いてくる想いだと思いますから
10年前、母は細菌感染が元で急死しました
その時、延命治療はどうしますか?と問われました
「それは母が望まないと思うし、母が元通りになる可能性がないのであれば、
延命治療はしないでください」と私は即答しました
父や妹もそれに同意しました
日ごろからの家族との関係や交わりや絆が問われると思いました
延命治療を承諾しなかったことに後悔はありません
OL時代の先輩が涙ながらに語ったのは、先輩のお父様の胃瘻の事
誤嚥性肺炎が元で、胃瘻にすることになったのですが、
胃瘻にするかしないかは
先輩にとっては、親を見殺しにするかしないかに思えたそうです
しかし、実際胃瘻にして、今度は、これで良かったのかどうかと心を痛めることになりました
意識のしっかりされているお父様の生かされているが故の苦悩を見ているのは辛く、
自然に死なせてあげればよかったと涙をこぼされました
胃瘻から約3年、喪中の葉書には、「やっと父は楽になりました」と書いてありました
人間模様は様々ですね
CHICHIさん、
本当に難しい問題です。
こういったことを考えだすと(本当に上司ともいつも話しているのですが)「神の領域」に触れることになるんだろうなと感じてしまいます。
私はいわゆる宗教を日常生活の一部に入れているような人間ではないのですが、人の命を救うということ、救えるけれどもそれがその方にとって本当に望まれたことなのかなどと考えると本当にキリがないほど深い問題に突き当たってしまいます。
それこそ、人が生きる意味とは何なのかという根源的な質問です。
家族は生きてもらいたい、しかし本人には酷い様で生きていてもらうのも辛いという二律背反。そして、本人の意志に沿わずとにかく呼吸だけを続けさせるというのも私は思考や責任を放棄したエゴもあるのかななどと考えたりもします。
私自身のことを言えば、嫁さんも私も回復の見込みが無い意識不明の状態になったらお互いに延命措置を行わないということを確認しあっていますが、これも実は一つの愛ではないかと思います。(いつもの私らしくなくてくさくてすみません、、、。)
先輩のお話の部分、誠に胸に突き刺さるものが有りました。人の生死の瞬間というのは本当に日頃の家族の絆がどうであったかを試される瞬間なのでしょう。
本当に難しいです。
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