2013年8月14日水曜日

敗戦の日と憲法

事実を噛み締めることの大切さは歴史において特に大切なこと。
それが嫌な記憶であっても記録によって確認された事実は事実。失敗から教訓を汲み取り学ぶことがなければ進歩は無し。(訳の分からないウリナラ理論で内政干渉をしてくる国や世界の中心を国名につけている国の歪んだ歴史認識は別として!)

先日、安部譲二のウェブに記してあった記事を読んで全くその通りだと大いに頷きました。
文章を読んで、まさにその通りだと思ったので自分の記憶用にここに貼っておきます。以下原文から。

「日本の社会は、トカゲのシッポ切りはしても、偉い人たちは決して責任を取らない。共同責任ということにして、曖昧なまま時が過ぎるのを待つ。 俺だって身勝手をしたり家族に迷惑をかけたりすれば謹慎させられる。指は取られないが「飲み屋禁止」になる。今がそうだ。ウニまで青い綺麗な目を白くして、俺を睨む。 敗戦を終戦と言い換えて誤魔化し、六十八年経った。原発事故も責任の所在を曖昧にして、そのまま人々の記憶が薄れるのをひたすら待っている。嫌なことには向き合わず、なかったことにするんだ。だから同じことが繰り返される。  責任を取らせるようにすると、恐くて何も決断できない。新しいことに挑戦せず、改革も先延ばし、成長が止まって縮小し、少しずつ壊れていく。 連帯責任と言いながら責任を曖昧にして放っておくと、土台が腐ってある日突然崩れ落ちる。どちらにしても「終了」なのだ。

日本のシステムの最悪の部分というのは事勿れの前例踏襲と精神主義、そして責任の所在をあいまいにする為に書類に無数のハンコをつきまくる連判状型決済方式。いかなるシステムであっても時間の経過とともに物事を新たな視点で見つめなおし、それに朱を入れる事は必須。今までXXだったから、前例が無いからといって旧弊に対する対応策を考えたり変化をもたらさなければそこに訪れるのは確実な崩壊か死。それは生物の基本システムにおいても然りです。
様々な予想できない状況に対しても「もしかして?」「万一に備えて!」という状況に対する準備があるからこその安全と成長があるはずなのにそれをしないのは自ら死を覚悟するようなもの。
自分の世代が関わりがないからといってそれを次の世代に任せっきりにしたりして尻拭いをしないのは卑怯者、愚か者の誹りを免れません。今の日本、数字に基づいた論理とそれを補う倫理に基づいて冷静な議論のもとにゴネ得を許さない解決策を次々に出すしか突然死を逃れる道はないでしょう。
年金、教育、子育て、税制、憲法などの諸々の問題に「今がよければ」等という弥縫策を繰り出しているような国に次の十年が迎えられるかというと甚だ心もとない話です。
あの時の敗戦を抱きしめて灰の中から立ち上がった国が二度と再び灰の中に戻っていくような姿を自分の眼で見たくはありません。それが例え実弾飛び交い人が斃れる真の戦争でなくとも。
神の国でも何でもない事が確認されたあの日から68年。我々日本人はもう一度なにをすべきか、憲法改正に対する議論を通じておおいに考える時期に来ていると思います。今の自民党が提出した基本案が良いのか悪いかはこれから突き回すべきものですが、現在の日本国憲法がどこかの旧社会党のバカなオバハンが言っていたような不磨の大典なる不気味な文言集であるはずも無し。w (本来、不磨の大典というのはこのオバハンが嫌っていた大日本帝国憲法に対する呼称なんですけどね!)
大体、平和憲法を改正するからといってそれが何故「非」平和憲法になるとか一体どういう論理回路が頭のなかにできているのか一回頭をかち割って中身を見たいものです。

「偉くない俺達」の手で確かな日本を次の世代に手渡すことはとても大切なことだと考える、終戦記念日という名がついた今年のアメリカで想う「敗戦の日」でした。
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