2013年7月23日火曜日

日本語の文章と英語

今回、UJAの主導で行われた分子生物学会の開催にあわせて行われたアンケートの作成と細胞工学への記事の作成という仕事がありました。
その時に細胞工学への寄稿依頼というのがUJAメンバーの仕事の一部としてあったのですが、久しぶりに真剣に日本語の文章というものに手を入れてみて改めて日本語という文章が英語とは違うものなのだなということを強く感じました。
文章の推敲の過程で特に強く感じたのは「主語」が曖昧なままでも、取り敢えず日本語の文章というのはそれ自体で殆んどの状況でマトモに通用してしまう日本語として成り立っているという不思議な事実でした。
ですから、よくよく推敲時にこの大元の日本語の文章の主語は、、、と言う感じで見なおしてみてもどれが主語か判らない、、、ということに気付き改めて日英の言葉の構造の違いに唸ってしまいました。こういう文章で主語がどこに当たるかというのが現代文の問題自体になっているっていうのもあるんでしょうけどね。
主語がなくとも日本語として普通に通ってしまうところに逆に日本人にとっての英文作成の難しさがあるなと感じました。日本人が書いた英文を読んでいて良く気づくのはこの主語の欠如。実際に自分で英文を書いている時も、端から英語でいきなり書くのではなくて日本語を元にして文章を構成しようとする時にはこの主語が抜けていることに気づくことが文章校正時に見つかることが度々あります。
やっぱり言語って本当に不思議ですよね。
日本語っていうのは主語が無くても普通に意味が通じ合えるような脳内での補完システムが存在するんでしょうかね。言語学者や国語学者では無いのでそういうことを考えたこともありませんでしたが、逆に外国人が日本語を話す時にはこの「主語」を意識的に抜いて「日本語らしい」普通の話し方をするのは非常な努力を要するのではないかなと考えた夜でした。
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