2011年8月17日水曜日

博士号は不要なんですか?

馬鹿も休み休み言えと強く言いたい。
まあ、こんな極端にレベルの低い議論をする輩の話をいちいち取り上げてしまっても大人気ないんですけど、ここに取り上げたアゴラの論調「博士課程:一握りの勝者を作るために、膨大な敗者を作りだして良いのか」は幾ら何でも「学問・研究」というものを見つめる「ヒト」としての目線が異常に低すぎて、久しぶりの「本格的」トホホという感じです。(因みにここでこの人が使ってる漢字「作る」はこの場合「創る」が正しいと思うんですけどね。)博士号など足裏の飯粒(取らないと気持ち悪いが、取っても食えない)等と昔から揶揄されますけど、私はそういう発言を素直に肯定できる人というのは、所詮、その程度のクオリティーの博士号しか取ってないということなんだと思います。
日本の大学院というものに触れたことのない方の為に説明しておきますと、博士号と一言で云いましても、そのクオリティーには「実は」それこそピンキリありまして、所謂有名大学でも、論文を出さないでも博士号を付与する「ふざけた」所もありますし、論文提出とは言っても、誰も(それこそ大学内部の人間さえ)読まないような、自分の大学が出す「学内報・学内雑誌」くらいでしか受け入れられずに、そこでの印刷、発行をもって「学位論文です!」なんちゅう事をやっている「自称」博士号保持者もそれこそ大量に居るんです。
そういう論文(特に医学部では、論文というより症例報告・症例検討とでも言うべき統計解析のようなモノがどこでも盛りだくさんですが、、、)を四年や六年かけて出しても、そのレベルの訓練と実力では世界の中ではなかなか戦えないのは至極当然のことで、そういうレベルの品質しかない「自称・博士号」を取った人達が大学という特別な温室を出て、次のステップに踏み出すのは相当の無理があるのは当然かと思います。そういう人にとっては最初に書いたような博士号など足裏の飯粒というのは実に腑に落ちる言葉なんでしょうけど。(笑)博士号取得なんて言うのは研究生活における単なる通過点でしか無く、実際のところ、勝負はそこからであるべきなんですけどね、、、。数学を解くのに意味は理解せずとも、記憶した解法を当て嵌めて良しとしているような人だったらそれはそれでありなんでしょう。
そんな人達が、企業なんかに出て行ってもそりゃ「使えねえな」という風に企業の側に判断されてもそれは企業のデベロッパーにしてみればごくまっとうな判断だと思います。(大体、即戦力としての大学院卒ってどういう人物なんだ?即戦力として期待するならわざわざ大学院卒を取ること自体が誤りというのは当然でし、大学院卒業生として企業に就職するときのプラス要素にしようというのはごく一部の例外的に研究内容の合致する工学系、理学系大学院を除けば、大きな間違いではないかと思います。)
大学院を「日本において」就職に使おうとする間のほうに責任があるのは明白。ママの「賢い」判断を待っている未熟な子供ではないのですから、いい歳こいて責任を他者に擦りつけても仕方ありません。アメリカのように高学歴が「直接」就職につながる必須の要件である国ではないのですから。文科省のバカ役人が唱導した「ポスドク1万人計画」なんかにまともに乗っかって一緒に阿波踊りを踊る事なく、そんなものとは無関係に、きちんと自分の「正しい」判断と「正しい」基準で大学院を選択し、時間稼ぎのモラトリアムの場所として時間を潰さず、困難なゴールに立ち向かっいった人達は、私の周りを見回しても、ほぼ間違いなく何らかの成果を勝ちとっていると思います。
ちょっと語弊があるかと思うので補足しておきますが、大学院の存在意義というのは別に企業で使えるかどうかなんて言う実学レベルの話が基本になっている訳でもないわけで、直接、直ぐには「役に立たない」けど、その思考過程、その考察の存在自体が人間の知的活動の結晶として新たなものをそのアーカイブに加えるならそれでもう十分だと思ってます。だからこその大学院なんですけどね、、、。そもそも、そこで活動する人は特に高い給料を求めてそういう仕事をする人である必要もないし。(金が目的なら最初からそんなとこ来るべきではないし。勿論、特許が取れてアレレ!という人も沢山居ますが。(笑))
昔、電磁気学を確立したマクスウェルが隣のご婦人に「電磁気は何の役に立ちますの?」と、問われた時に「生まれた赤ん坊がどんな人物に育つか誰もわからない」との返答をしたのと同じことが永遠に繰り返されるわけです。数学でも、物理でも、他の自然科学でも、一体この先に何がある?ということを問い続ける事、それ自体に意義があるわけで、それを「応用して」何か人類の生活に応用できる何かが見つかるかどうかということは、言っては悪いんですが、二の次だと強く思います。例えば、リーマン予想「ζ(s) の自明でない零点sは、全て実部が1/2の直線上に存在する」を証明するような、数学の進歩自体を動かすが如き巨大な研究なんかでさえ、この著者の主張を当て嵌めてしまえば、研究するに値しないんでしょうが。(笑)
そういう観点からすると、最後の二行に書いてある、「たかだか、ちょっとだけましな大学教員を養成するために、膨大な27歳超の未熟練労働者を作り出すことは、公共の利益にかなうのだろうかと、私は問いたいのである。」という記述に至っては、その大学院教育に対する視点の低さと視界の狭さに開いた口が塞がらない、とでもいいましょうか、全身脱力と言いましょうか、、、。古典的な「実学系」の発想を大学院教育に関してこういう形で発言する勇気のある人が「未だ居ったか!」と、逆に驚愕する次第です。(笑)まあ、そもそも「大学院も出てない、博士号さえ持たない様な連中に大学の教員をさせる」ということ自体を問題にするのが会話の始まりで有るべきではないかと思います。基本的に大学院というのは「自分で」考える過程というのを更に磨き上げるところですから、「自分で」考える事が出来ないと思う人は本来選択すべき道筋ではないと思うんですけどね、、、。
リスク無くして挑戦無し、と言う言葉を受け入れられない人は人生の如何なる分岐点においても手近な、安全な選択を選んどけば良いと思います。それはそれで立派な人生ですし、しかし、それ自体がどういう結果を産み出そうと、その結果産み出された人生の中における差異というものに対して不平不満をぶつけるようなことは完全にお門違いだと思います。また、逆に考えると、博士号をとった期間の長さ故に就職が不利だ云々という人は自分のとったリスクに対して責任が取れなかったのですからそれはそれまでのこと、ブー垂れても残念ながら、アメリカではないのですから日本では誰も救ってくれません。この点に関しては「もっとも、どんな進路にも不確実性はあり、本人がリスクを織り込んで進路決定をしている以上、敗者の不利益など、どうでもいいという理屈も成り立つ」というところはある程度正しい議論の一部ではあるんでしょうが。
上のようなアゴラの論調が、医師というある程度の高等教育を受けた人の口からさえ吐き出され、かつ公共の場に堂々と論考の一つとして、編集部からの掲載容認というフィルタリングを経たメディアの意見として恥ずかしげもなく晒される国なのですから、その点、日本で博士号を取る事自体が目標になっている方にはお気の毒としか言いようがないのですが、、、。
それはさておき、最後に一言。一体このアゴラのタイトルになっている「一握りの勝者」って一体全体何?就職に成功した人?何と志の低いことよ、、、。こんな連中に自由に大学院教育を論じさせたら日本の文化も科学もあっと言う間に三流国に転落開始ですよ、、、。
ケンブリッジは就職のことを考えて大学院で研究しているのか?オックスフォードは?プリンストンは?レベルの高い競争をしたければ、少なくともだけでも高く大きく持ちたいものです。最初っからどこかの国の大顰蹙をかった仕分け人みたいな恥ずかしい発言の先棒担ぎだけはしたくないものです。

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