2026年1月15日木曜日

葬式を終えて

朝起きると昨日と違うのは弟の躰がこの世から無くなったという事実でした。

棚の上に置いてある弟の遺骨と遺影をジッと眺めたあと、正座をしてお鈴を鳴らして弟に語りかけました。何か具体的な話を語りかけるでも無いのですが、語りかける事でこちらの心の安定を得られるのであればそれは今の私にとっては必要な儀式です。

実際には語りかけている時ではなく、その合間合間に何かをしている時にふとした事で涙が出そうになります。それは親父も同じようで、実の息子を亡くした哀しみは容易には離れる訳がありません。

そこで、私は親父に弟のこれからの死後の役所関連の書類等、身辺整理の事を進めるように持ち掛けて気を紛らす事にしました。そもそも、書類仕事は丹念にかつ淡々と進める人ですので、任せておけば種々の書類を集めて役所にもって行っていろいろとやる筈で、そう言う事に関しては「間違いのない人」です。

早速、書類仕事を始めた直後に親父から私にリクエストがあり、37年間もお世話になった、弟が長い間入所していた施設へ必要書類を幾つか取りに行く事になりました。

施設まで親父を送り届けて施設の方々と再びの御挨拶をさせて頂き、突然の非礼を詫びつつも手短に必要書類を提出して頂きました。実際に必要だったのはマイナンバー・カード以外には数種類の障碍者手帳等のカード類で、その他を合せても四種類程度でした。

何れにしても全ての準備が一度で終わるとは思えないので、一旦は施設の方にお別れの挨拶をして施設を辞しました。

このあと、清武周辺の親父が少年時代を過ごしたエリアやその思い出話を語ってもらいながら田舎道をウロウロと走り回りました。その途上で宮崎らしい景色と遭遇!「これは長女を連れてこないといけない」という事で急ぎ家へと一旦戻りカメラを持たせて先ほどの場所へ。
下の写真がその現場です。
宮崎の中でも、清武・田野周辺で特に有名な切り干し大根の最終局面でした。そして、その脇には田の神ならぬ石碑が建っておりまして、近くによってその塚の表面の文字を読んでみると驚くべき事に350年前(1677)の正月に開墾を記念されて建てられたものと判りました。
延宝五年巳年歳と書かれていて、これは第四代将軍徳川家綱の治世の時代という驚くべき古さでした。
田の神様ではありませんでしたが、七人の侍のようにシンプルなマークとして〇が彫り込まれていました。
こういうものを見ると、時間の流れと人の移り変わりは時間の流れの中の短い一コマなのだという事を改めて想い出させるものでした。

夜はエヴァンゲリオンを観るという娘をイオンに送迎して一日を終えました。


2026年1月14日水曜日

弟の葬式

今日という日が弟の物理的な最後の別れの日となりました。

納棺は実は私の間抜けな勘違いで朝7:30過ぎに行われるというのを8:30と間違えていたために親父と葬儀社の方々の手で行われました。既に旅立ちの衣服は着替えさせ死化粧は済ませていたので、納棺自体は何も問題なかったそうですが、まことにいつも間抜けな兄貴です。弟も呆れていた事でしょ云う。

さて、葬儀は9:00から開始されました。

無宗教のスタイルで始まりましたので、先ずは親族が椅子に座り焼香開始。順番に一通り終わると今度は飾られていたお花を手折って弟の躰の周りに皆の手で飾っていきました。そこにはそれぞれの人間が口を付けた一杯のお猪口で水を掛けて最後のお別れ。

私は最後の最後で冷たくなった弟の顔を撫でながら何度もその顔にキスをしました。涙が目から溢れてなかなか止める事も出来ず、そのまま垂らしながら弟に何もしてやれなかった馬鹿な兄貴の今迄の人生を謝りながら「またみんなであっちで会おうな!」と約束しました。

親より早く死んでしまった、兄貴より早く死んでしまった弟。もし周産期の事故が無かったら一体どんな生活を送っていたのだろう、結婚して仕事をして子供もいたのかな。絶対俺よりかっこよくて賢かったろうな…などと、とりとめも無い事を考え続けました。

親父が涙声で会葬者の皆さんに短い謝辞を述べて弟の躰は棺に蓋をされ葬儀場から運び出されました。車には写真を持った親父と骨壺を持ってくれた私の嫁さんが乗り込み静かに出発。葬儀会場を出る時には道行くトラックも静かに止まって我々の出発を優先してくれました。

お焼きの場所(火葬場)は清武の方にありますが、ゆっくり走るうちにあっと言う間に到着。親族が集合して分散して乗ってきた車から降りて遺体搬送車から出て来た躰を囲みながら最後のお別れの場へ。5番の番号札を渡され最後に部屋へ入っていく四角い棺を茫然と見守りました。親父が火入れのボタンを押して後は待つ事になりました。

我々は直ぐに部屋から出て昼ご飯を食べる為に近くのJoyfullへと全員で移動。こんな時でもしっかりとtwin humburgersをたべる事のできる親父を見て少し安心しました。^^

親族皆が腹をきちんと温かいご飯で満たして火葬場へ戻ると指定された時間の20分前。ソファに座って皆でゆっくりと弟の話や昔話をしながら待っていると職員の方からコール。

お焼きの部屋から出て来た弟の躰は既に骨だけになっていました。

先ず私と親父で脚の方から骨を拾い箸で二回渡し合いながら最初の御骨拾いを終了。その後は下半身から次第に上半身に向かって少しずつ骨を拾い喉仏を親父が拾って骨壺に収め、最後に頭蓋骨頭頂部で蓋をして終了。

全員で一礼して全ての儀式を終えました。

写真と骨壺を持って外に出ると思いのほか暖かく、雨も降らずという穏やかな日差し。皆で並んで長女から写真を沢山撮って貰いました。最後は私の方から親族の皆に兄として手短に感謝の言葉を述べさせて頂き皆の眼に少し涙が見えたような気がしました。

感謝感謝感謝。参列して下さって弟の人生の最後の締め括りを見送って下さった方々に挨拶をしてその場を離れました。

家に戻り弟の遺影を最適な箪笥の上に置いて骨壺をその隣に安置しました。水を供えお菓子を皿に盛り「お鈴(りん)」を鳴らしました。線香に関しては備え付けのものはあったのですが可愛らしい蝋燭立てと灰皿を準備するまでは少し待つ事にしました。

こうやって骨壺に入って小さくなってしまった弟を見ると改めて「形としては」居なくなったんだなという事を実感せざるを得ませんでした。

我々は親父を元気付ける兼ね合いも込みで、暫くして夕食に親父を誘い皆で焼き肉を食べました。ここでも沢山食べてくれた親父を見る事で逆に私は安心しました。生きている者は今日も食事をして糞をして仕事をして…とやらなければならない事が順繰りと寄せては返す波のようにやって来ます。それが生きるという事。

弟の為にも少しでも世の中に役に立つ余生を送らなければなりません。

家に帰ってゆっくりした後、弟にまた手を合せてから寝床に就きました。

2026年1月13日火曜日

弟の通夜

翌日は今日の本通夜に備えての一日が始まりました。

そもそも葬儀をどういう形態でするのかという所から葬儀社の方と話が始まりましたが、先ずは家族葬でコンパクトに行うという事から話を開始。それでも基本料金の下限は50万円からです!

その上で明日の葬儀進行の時間の段取りや加える花などを次々に選んで行くとともに最終的に無宗教で行く事をお話しました。知りもしないクソ坊主を弟の葬式に呼んで、何を言っているのかわからない読経を長時間聞かされて、有難くも何ともない説教を垂れてレクサスに乗って帰るような野郎の関与が弟の葬式に必要とは思いません。それは自分の葬式でも全く同じ。

最終的に額を決定して全て終了。

それにしても基本額がX万円だとしても、それから後に次から次へと提案して来る「様々なオプション」を付けるとあっと言う間に数十万円の追加になってしまいます。ここを一つ一つ丁寧に固辞しながら最終的にほぼミニマムに近い金額で収束させました。

私は自分の勤める病院にも「弟の不幸の為に仕事を休む」という事を知らせたのみで、それ以外に一切の情報を伝えませんでしたので、ここに花が来る訳もなく。プライベートは完全にブロックしました。

「X時」というようにコレと言った時間を通夜の時間に決めた訳ではありませんので、午後から三々五々親父の親戚や弟の施設の方々が集まって来られては焼香をして下さいました。弟に関するありとあらゆる思い出話に花が咲き、弟に関して初めて聞くような施設での話が沢山出て来ました。

更に3時過ぎには長崎からやって来た長女を飛行場に迎えに行って会場に案内したところ、大量にスキャンしていた私の家族の過去の写真群からあっと言う間に弟の写っている大量の写真をピックアップしデジタル・フォトアルバムを作ってくれていました。更に親族たちの過去の写真も!

それを見た親戚達も弟の話や親族の過去などに関して大量の新鮮な話をしてくれて皆が大変い盛り上がりました。弟も大勢の人に集まって貰い、きっと喜んだことでしょう。皆遅くまでずっと座り込んでいろいろな話をし続けて終わることはありませんでした。

そこに名古屋から駆け付けた嫁さんが合流してきました。やって来たのは夜の11時直前。宮崎駅でピックアップしたのですが、飛行場まで行って機材整備の為といって飛ばなくなった飛行機の代わりに新幹線で博多まで行って、そこから九州新幹線で鹿児島まで移動し、日豊本線で北上して宮崎駅までやって来たのでした。

嫁さんが到着する直前に本当に夜遅くになって流石に皆が明日の事もあるからという時間になって散会。嫁さんの到着は散会後でした。

私は私で弟の体からドライアイスを外し、体が硬直して難し目でしたが服を旅立ちに問題ないものに着替えさせました。その後、今度は私の長女が弟の死化粧をしてくれました。先ずは二人で弟の少しだけ伸びた髭を完璧に剃り上げて、その後に娘が心を込めて自分の化粧道具から適切な色を選んで弟の顔を血色良くしてくれました。

最後に弟に再度線香をあげて終了を報告。納棺師任せでは出来ない心のこもった作業を最後に娘と二人で弟にしてあげることが出来ました。その作業の間中親父はずっと私と娘の共同作業を見つめ続けていました。娘には感謝しかありません。本当に普段は喋らないけど、ここぞという所では何時も凄く役立つ人間に育ってくれたことに改めて気づき、驚き、感謝した夜となりました。

最後に、今日の通夜には親父と親父の弟が一緒に通夜の会場に一晩泊ってくれるとの事で、私の家族は実家へ戻って明日へ備える事にしました。

2026年1月12日月曜日

弟の最後に間に合わなかった兄貴

電話で叔母から話を聞いた直後、たまらず目頭が熱くなりました。飛行機が遅れて僅かにその死に目に間に合わなかったことが残念で仕方ありませんでしたが、それを悔いてももう弟は還っては来ません。

飛行場から車を飛ばして、比較的近くにある救命救急センターに駆けつけるとそこには親父と親父の妹夫婦が控室で静かに待ってくれていました。

救命センターの看護師さんが部屋にやって来て「お兄さんですか?」と問いかけてくれました。「先生に会って説明から聞かれますか、それとも弟さんに先に会われますか」と問われましたが、一も二も無く「先ずは弟に会わせてください」とお願いしました。

部屋に入ると、既に血の気が引いたというよりも低酸素血症で組織には酸素を持ったヘモグロビンは殆どない状況、更に死語経過30分くらいの時間経過で既に「ほとけ様」と言えるような表情になっていました。

思わず近寄って手を握りましたが、体は未だ温かく、手もしっかり握って温かみを感じることが出来ました。左手にはルートを確保した形跡がありましたが、既に抜き取られていました。胸郭や腹部には特に特徴的な変化は見られませんでしたが、既に動きを止め静かな躰になっていました。

間に合わなかったことを弟に詫び、静かに語りかけると押さえ込もうとする涙が溢れて止まりませんでした。兄貴より早くあの世に行く弟があるか!親より先に死ぬ子供が居るか!と語りかけると共に、弟を治療するという小さな頃の目標を達成すべく医者にはなったものの、俺自身は弟に何もしてやれなかった事を心の底から詫びました。

手を握りしめてずっと語り続けていると、レスキューに当たってくださったM先生が出てきてくださり挨拶をして下さいました。私は意思疎通の困難な弟の為に全力を尽くして下さった先生に深謝し、言葉を交わしました。

その後、先生に案内されCT画像や血液データを見せて頂き医者同士が判る内容の話をしました。画像上はS状結腸捻転による絞扼性イレウスが酷い状態で、胸郭の下半分を埋める程に腸が膨張しており、誤嚥性肺炎などは無く腸管壊死後の敗血症性ショックと思われる事が推定されました。

恐らく、昨夜から激痛に苦しんでいたであろうと思われましたが、そのうちに腸管が壊死して痛みも無くショック状態に陥った状態で搬送されたことが容易に想像でき、言葉を発すること、自らが急いで動く事が出来なかった弟の無念を思うと医師の兄としては弟にゴメンという言葉しか出て来ませんでした。

親父の薄い記憶と親戚の叔母さんの話を頼りに葬儀社をネットで探し、家の近所の葬儀社の手配を済ませると三時間後に迎えに来れるという事でしたので、親父と息子と三人で近所のファミレスを探して食事を摂る事にしました。

Joyfullがありましたので、そこに入ると親父は何とツイン・ハンバーグを注文。どんな時でも良く食べる親父で、これなら心配は無いなと少し安心しました。

7時にお迎えが来ると何時もは送る側である私が今度は送られる側の家族になって送られるのは奇妙な感覚で、二人の看護師さん達に付き添われて移動するのは何だか現実感がありませんでした。

親父には遺体搬送車に付き添ってもらい、私は後を追う形で宮崎市内へ向かいました。そこでは仮通夜という形で弟の体が既に布団に寝かされており、土気色の体を右に傾けて眠っていました。(抗てんかん剤の長期摂取による副作用による骨粗鬆症で円背状態だったので、真っ直ぐ上を向いて寝ることが出来なかったためです)

暫く弟に線香をあげたりして明日からの事に関する打ち合わせを簡単に葬儀社の方と行ったあと、我々は葬儀社の方々の御助言に従い、弟を残して家へ戻って行ったのでした。

2026年1月11日日曜日

弟が急死しました

 朝 身体障碍者の弟の入所施設より連絡があり、弟が宮崎大学の救命救急センターに搬送されたという連絡が入りました。

三連休の入り口という事でゆっくりと寝ている所を突然起こされたのですが、朝から切迫した声で弟の入っている施設から急な連絡。「昨日の夜二回嘔吐されて、経過を見ていたんですが今朝また嘔吐されてSaturationが測れなくなって宮崎大学病院の救命救急センターに救急車で運ばれました」との事。

正直、これはただならぬ事態が発生したことが確信出来ました。

実は三年ほど前に誤嚥性肺炎を起こし始めてからというもの、流動食が中心になっておりまして、劇的に痩せてしまっていたのでした。親父から送られてくる施設で過ごす弟の写真を見ていても「やつれていく」のが目に見える状態でした。ですから「なにか」が起きる可能性というのは常にあり、しかもそれは日々増していた訳なんですけど、その日が来てしまった感じです。

施設以外からも直接救命救急センターの先生御自身から電話が入り「血ガスの結果をみると乳酸値がXX、CO2がXX、COがXX」というお話で、今からCTを撮って何が起きているのか確認しますとのこと。その数値は絶望的なもので、聞く限りではもうアカンかなと思わせるもの。

実際に先生からも「どこまで治療されますか」という質問がありました。これは親父とも話をしてみないとと思いつつも、施設に親父が書き置いた意思表示評がある筈だと思って一旦施設に質問をしてみたところ、探し出してきた紙には「どちらにするか決めていない」という選択肢にばかり丸が付いていたとのお返事。orz

私からは救命センターに再度連絡を入れ「挿管と経静脈的処置まではお願いいたします。万一オペが必要でしたらそれも行っていただいて結構です」とのお返事を一旦させていただきました。

直ちに身支度をして出発する準備を始めてANAの時刻表を睨みながら息子を連れて二人で出発するためにチケットを取得。昼1:05分の便で出発する事となりました。到着は2:45ですが、万一の事を考えると一刻も早く到着したい所。

斧間にも先生から報告があり、造影CTまで行えたけれども誤嚥性肺炎ではなくS状結腸捻転による絞扼性イレウスが強く疑われるとの連絡。この言葉に再度衝撃を受けました。それが事実であれば発症の経過からして腸管壊死から敗血症などが発生していてもおかしくありません。

飛行機の出発は少し遅れ、ここ一年で一番の寒波の日と重なり遅延。飛行機に乗っている間も内心暗い気持ちでした。

実際に到着したのは3時過ぎ。レンタカーを直ぐに借りて乗り込もうとした時に(連絡のとれない親父に代わって)親戚の叔母さんから一本の電話が入りました。「間に合わんかったよ。先生が3:09分に亡くなったって言いやったよ」。連絡は15:12分でした。