車などと一緒で、使い込んでいるうちにあちらの部品こちらの部品にガタがきて、そこの修理を行わなければならないというのは全く一緒です。修理の方法が存在し、かつその修理代が安ければ素晴らしい。修理の方法があるのだけど大変に金銭的に高価で全替えしたほうが良いというのも当然ある訳ですが、人の体はそうはいきません。置き換えが可能になるというような治療法も必ずや未来には登場するのはわかっていても「今」ではない。
骨や水晶体は置き換えの効くものの代表ですが、肝臓や腎臓の移植などもまだまだ他人のものですし、免疫抑制剤のしようも未だに必要なパターンが普通。皮膚でさえ未だ「自己の皮膚」という形では出てきていませんし、実験室からやっと出てきて高額な医療費でチャレンジングな移植などを行うその他の臓器の治療法もありますが、少なくとも市井の医師が患者さんに向けて「じゃあ、ここに行ってこの臓器を替えてもらうことを考慮して貰いましょう」というような事も全くありません。
そういう意味では、こういう高度な医療はもう我々にはアプリケーションとしては受けない(若しくは受けられない)という覚悟を持ってくるような70代後半以降の年になってくると、私の診察に来ても「ピンピンコロリと逝かんかね、先生」とか、「長く生きすぎたからもうええわ、そろそろ何とか楽に逝けんかいな、いい薬無い?」等という事を笑顔で話しながら、実は発言自体は結構大真面目という人も沢山いるんですよね。
残念な事ではあるのですが、そういう方々の中には10年を超えて診察していくうちには癌を発症したり、重大な疾病・症状が次第に表に出てくる事も当然あります。出血や痛み、そして熱発などが表に出てきて初めてそれまで生化学的定期診断には出てこなかった「異常」が出てくることがある訳です。実際にはトイレに行った時に便が黒かったとか、血が混じっていたとか、食欲がこの三か月で随分落ちてきたとか、体重が徐々に落ちてきていたけど言わなかった、はたまたやたらと汗が出る、手に力が入りにくくなってきていたけど放っておいたとか。
そういう意味では問診は非常に大事なんですが、こういった身体の異常や感覚を「会話を通じて記憶の中から引き出す、もしくは正直に話してもらえるような状況に持ってくる」というのはそれぞれの医師が持つ大切なテクニックです。この手法を維持したり磨くのは日々大切な訓練なのですが、ある程度それぞれの医師が持っているベースというものがあって、これが全くダメな医師も稀ならずいる訳です。
大学病院のようなところで高度な医療を担当する専門医が、短時間で切れ味良く患者さんを捌くことも必要ですが、更にそういう高度医療の外側にいる我々のような医師はある程度ゆっくりと患者さんと話す時間を持ちながら病気をマネージメントさせてもらえるという「特権」を与えられると考えています。
患者さん達との会話を愉しむことが許され、その中で患者さんの悩み解決や疾病の治療をすることで患者さんに感謝される職業というのは素晴らしい仕事だなと改めて感じるのでした。
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