世間とか世間体とかいう言葉があります。
私はどっちかというより、全くと言っていいほどこの言葉の存在を無視して生きてきた人間なので、他の人からの視線を少しは気にするいわゆる標準的、常識的(なんでしょうか??)な嫁さんと結婚したあと、事ある毎にこう言われてきました。「あんたのような人が自分が普通だと思ったら大きな間違い」と。
まあ、一応は自分では「金太郎飴的日本人の標準男性」とか口では抗うのですが、心の底では「やっぱ俺が標準だったら世間はもっと戦闘的な人間が増えすぎてしまうわな~」と思ってるところがあるのも事実です。
では世間の中で上手く生きていくには、という問いかけ自体が俺の生活に成り立つのか、というとそれは全く考えた事がないというのが正直なところ。逆に言えば、そんな事を考える必要がないような生活の場所を選んできたのかもしれません。つまり問いかける必要もなかったと。w
研究にしろ、アメリカでの生活にしろ、会社勤めとか考えたことも無いし、就職活動というものがどういうものかも知らないままで不惑もとうに過ぎてこの歳にまでなってしまいましたので、世間の大多数とはかなり外れてるのかも、と考えることがたまにあります。上司の顔色を伺う必要のない仕事を自然に選んだというのも本質的にこの仕事を選んだ要因の中では結果論ですが、自分のような博奕打ち的人生を普通に思える人には良かったなと思ってます。(嫁さん曰く、あんたには常識ある生活は無理!との事ですが。orz)
世間とか言われても、日常生きている世界が自分にとっての世間であれば、(レベルは高くないながらも!)そこで大きな摩擦も起こさずヒーヒー言いながらそれに適応して生きているという意味ではこれが「俺にとっての」良い世間なんでしょうか。
結局のところ、世間体とかいうのは思うに「自分を映す鏡」なんではないでしょうかね。世間が憎くて憎くてしょうがないというような人はそういう風に外の世界を見ていかざるを得ないような境遇に自分を追い込んでいく何かが自分にはあったわけだと思いますし。誰とあっても上手く口をきけないけれども、感情の豊かな人で、心理的に向かい合った人との距離や心の襞を深く理解できるような人であれば長年に亘って何も言えない自分を否定しないためにはそういう自分の状況におい込んだ外の世界が悪いというような反応をする人も当然の如くいるはずで、別にその人が異常でも何でもないある種の選択の連続の結果、そういう対世間感とでもいうものを培ったということなんでしょうか。それが本人や世間にとって幸か不幸かはまた別の話ですが。小説家なんてそんな人たくさんいるでしょうし、、、。
卑近な例で申し訳ないのですが、自分の場合、周りに居る人の誰を見渡しても、反りの合わない輩もゼロとは言わず居るものの、99%の人達は自分にとって会って挨拶して、擦れ違ったあとに自然と微笑みが残る人物ばかりなので、大人的には怒る必要のない良い生活です。頭に来ることといったら自分の不甲斐なさに対するものがほぼ10割ですか、、、。何というか、天馬空を駆けるが如く!というようなカッコイイ人生、ちょっとトホホな人である俺には無理ですな~(笑)
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