数日前に引き続き、理系と文系のお話。今回はアメリカの高校以降の高等教育機関。
実際には私の周りの日常の人間達の事を私自身が徒然に書くだけのことしか出来ませんが、日本と大きく違うのは理系文系の間の流動性の大きさでしょうか。質のことはこの際「脇において」話を進めようと思いますが、「主に」理系の科目をとっている人間も「主に」文系の科目をとっている人間も、カレッジに行っている間にメジャーの専攻を極普通に変えてしまう人間が大量にいるということ、そしてそれを可能にする「日本と比べれば」遥かに容易に出来てしまうようなシステムが存在する為です。この流動性の大きさこそがアメリカと日本の大きな違いだと思います。この差を産み出す中には大学間での相互単位認定制度の存在、そして同一大学内の学部間での単位認定の許容度のでかさも大きな要素です。
転石苔をむさずという言葉の意味が日米で逆転するかのごとく言われているのはよく聞く話ですが、本当に皆よくメジャーを変える!、変える!変える!カレッジの在学中に二、三回変えるなんて言うのもそんなに珍しく有りません。要するに「これは自分に合わんな~」と思った時点で科目を捨てて赤点を残さず次のメジャーへと移っていく人間が沢山居るのです。
私の友人の中にも、カレッジで考古学、グラジュエートは医学とか、カレッジは電子工学、グラジュエートは歯学とか、カレッジは弁護士目指して法学、グラジュエートは機械工学なんていうのがそれこそ「ごろごろ」居ります。何だか羨ましい程の流動性です。実際、高校の進学説明会なんかに行くと、進路指導の先生達が説明するのは理系に行ったからと言って医学部が有利になるわけでは全然無くて、むしろ最近は(たとえばUVAですが)入学許可された学生の4割以上は純粋な文系ですよ!などと、警告とも取れるようなお話がある訳です。
まあ、コンピューターサイエンスとか数学科はそういう訳にはいかんでしょうが、少なくとも文理間の移動に関するrigidityは物凄く低いわけです。
その上、文理間でどっちの人間が勉強ができるか(学校で課される紙のテストで良い成績を残せるか)というのはアメリカで学生を見ている限りでは、普通にアイビーリーグクラスの大学に行った人間であっても、「総合点を合わせてしまうと」文系・理系で取り返しのつかないほどの差は無いのが実際です。
というのも、大学の入学判定に使われるSATやACTその他のテスト自体が、ある程度の大学を志向する子達にとってはそれほど巨大な差がつかないような設問になっているというのもあるのかもしれません。実際には英語に関連した二科目と、数学それに課外活動その他のアクティビティで「人間」を見るというのがこちらの入試ですから。日本のような早い段階でのrigidな進路選択が無いシステムだからこそ可能な事なんでしょうね。
実際、なんのかんの言っても、カレッジを目指してそこを卒業した人間、またはその次のグラジュエートを出た人間達でこの国のシステムはぐるぐる回っていますから、上から下まで皆平等というのとは最初から決別してる、というのが自由とそれに伴う義務、責任、そして対価を求める国らしいなという感じです。
Jack Daniel'sを飲んでこれを書いたので、論理構成がドカンとと飛んでしまってるかもしれません、、、。すんません。
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