2010年5月13日木曜日

斎藤隆夫

時代は変わっても、為政者というのは変わらないものだなと、明治の斎藤隆夫の演説を読んでいて強く思った。70年程前の演説にして、人物名の処だけ変えればやってることは全く一緒という、、、。
全文はここ。

所が独り近衛公のみは曾て貴族院議長の職に居られたことはあるが、其の他に於ては文官としても武官としても亦無論政党人としても国政に何等の貢献も経験も有せない人である。 然るに其の近衛公が昭和十二年六月林内閣総辞職の後を承けて新内閣を組織することになったから、是まで国事に関し何等の苦労も嘗めずして国家の政権に当るのは藤原氏が衽席の上に座して政権を握ったのと同様に見られても仕方がない。 然る所が公に大命が降ると世人は之を怪しまないのみならず、寧ろ之を歓迎した。 而も普通一遍の歓迎振りではなくして大歓迎をなした。 何が故であるか。 言うまでもなく是は時代の力である。 即ち公は我が国に於ける最高の名門出身であるが、名門を尊重するは古来我が国の因襲であるのみならず、前述の如く従来我が国の総理大臣は経歴上には申分がないが、最近には其の年齢は六、七十歳より八十歳近くの人もありて、国家の大任を担うに当りては何となく其の精力に足らざる所があるようにも思える。 又それ等の人々の中には随分頭も旧くして、黴でも生えて居るではないかと疑われ、議会に於ける答弁を聴いても是で総理大臣が勤まるならば総理大臣は実に楽なものであると思わるる人々もないではない。 然るに独り近衛公のみは年齢はまだ五十歳になるかならないかの壮年であり、学問もある。 頭脳も良し、聡明叡智であり、人格も上品にして温厚である。 其の上最も時代が要求する革新気分が横溢して居るように見えたから、公が出たならばどしどしと革新政策は断行せられて、政界も明朗化するに相違ないと思うて国民は公の出馬を歓迎し、近衛公に向って多大の期待を有して居たことは疑われない。 然る所が愈々新内閣が成立して見れば、国民は先ず第 一に失望の念に打たれた。 それは閣僚中の少くとも数人は世間何人の眼より見るも到底大臣の地位に就くべき資格ある人ではない 全く公の私的関係即ち情実因縁よりして其の器にあらざる者を挙げて国家の重職を与えたからである。 当時世間では近衛内閣は全く公の私的内閣であると言うたが、全部が私的ではないにしても一部は確かに私的であったに相違ない。 果せる哉其の後国務を進めて行く中、閣僚の無能と不適任に触れて、内閣存続中一年有半の間に屡々閣僚を更迭せしめた。 凡そ我が国歴代の内閣に於て近衛内閣ほど自由勝手に閣僚を更迭したる内閣はないが、而も是等の更迭が何の支障もなく容易に行わるる所に私的内閣の特性が見える。 茲に至りて又もや頼山陽の日本外史を引用せざるを得ない。 外史氏は藤原氏の専横を論じて次の如くに述べて居る。


自相門之専権也、后皆其女、天子皆其女所生、而卿相皆其子弟親属、
苟非其族類、鋤而去之、雖皇族 不能免焉、甚則易置其主、猶視奕基


即ち藤原氏が政権を専らにしてからは皇后は大概藤原氏の娘であり、天子も亦藤原氏出の女の産みたる御方が多かった。 而して公卿宰相の位は親子兄弟の間か血族の間でなけれは与えられず、苟くも其の親族にあらざる以上は縦し 其の位に居るとも全く土を鋤き返して草を刈る如く、直ちに之を排斥して顧みない。 皇族と雖も其の禍から免るることは出来ず、甚だしきに至りては恐れ多くも皇祚までも動かし奉り、勝手に天子を取り代え奉りて―之を視ること恰も碁石を取り代えるが如くに思うて居たと云うのであって、苟くも日本臣民にして此の論説を読む者は何人と雖も藤原氏の専横を怒らざるものはなかろう。 固より近衛内閣閣僚更迭は是とは比すべきものではないが、併し自由勝手に閣僚を取り代えることは全く碁石を置き代える如くにしか思って居なかったように見ゆる。 普通一般の属僚を更迭するならば兎も角、苟くも憲法上に於て天皇輔弼の重責を荷う国務大臣として総理大臣の奏請に依りて任命せられたる者を無能である、不適任であるとして碁石の如く置き代えるに至りては、総理大臣として又国務大臣として自己の不明、奏上に対する責任はどうなるものであるか。 之を公に質して見たいものである。次に全国民が近衛公に対して最も失望したことは、公に政治上の実力が欠けて居ることである。 言うまでもなく国民が公に多大の期待を懸けて居たのは革新政策の実行であって、国民が公を歓迎したのも是が為である。 又公が身を挺して責任の衝に当ったのも是が為であったに相違ない。 それであったから第一次近衛内閣が成立すると、公は各所に於て革新意見を発表して居られた。 尤も近年我が国内には革新気分が横溢して誰も彼も革新を口にせない者はなく、革新を唱えない者は政治家や経済家の仲間入りが出来ないように言われて居るが、偖て然らば一体如何なる方面に向って如何なる革新を行わんとするのであるかと問わば、殆ど空漠として捕捉することが出来ないものばかりであり、偶々其の内容を聴いて見れば、それは別に革新と名の付くものではなく、尋常一様の平凡事に過ぎないものであるから、近衛公の抱懐せられた革新意見も其の範疇を出でないもののように思われた。 即ち組閣早々新聞紙を通じて世上に発表せられた所を見ると、対外的には国際正義に基づく真の平和を確立し、対内的には社会主義に基づく施設をなすが為に全国民と手を握って革新を行いたいと云う位のものであって、是では何のことかさっばり分らない。 それより日を重ねて稍々具体的に現われたるものの中には議会制度の改革がある。 貴族院及び衆議院の改革もある。 内閣制度の根本的改革から学制制度や官吏制度の改革其の他種々の改革意見が発表せられたが、其の中に支那事変が突発した。 現地解決、事件不拡大の方針も立所に裏切られて事件は拡大に拡大を重ねて停止する所を知らない。 蒋介石を相手とせず、東亜の新秩序を建設する、其の他の近衛声明に付ては茲に言及せないが、此の事変が革新政策の遂行を不可能ならしむる性質のものであるかと言えば、断じて左様なものではないに拘らず、一体最初に標榜したる革新政策はどうなったのであるか。 一年有半の内閣存続中に於て革新政策の片鱗だにも行われない。 而して昭和十三年の十二月に至り第七十四議会を召集しながら此の議会に臨まんともせず、翌年一月早々総 辞職をして逃げ出してしまう。 議会が開けたならば革新政策はどうなったのかと質問が出るに相違ないからまさか之を避ける為でもなかろうが、何としても我が儘でないとは言えまい。 公は是にて責任解除と思わるるかも知れないが、馬鹿を見たのは国民である。 公の出馬を歓迎し、政治革新に多大の期待を懸けて居た国民は全く狐につままれた如くに唯々唖然たると同時に、名門の公爵と云う人々は斯様なものかと初めて気が付いたかも知らない

どうでしょう?全く今のバカ大臣に朗読させたいもんです。w

0 件のコメント: