2008年11月27日木曜日

英語と日本語の話-続き

-前回の続きです-
我が家の長女が6歳になった時点でこちらの保育所(nursery)に預ける事になりました。我が家にとっての初めての親以外による教育の開始、それに加えて彼女は滞米一年とはいえ外部では英語にさらされる機会はその時点まで、ほぼ皆無でした。(概念や思考の発達のために、私達は我々にとっての完全な母国語である日本語のみを意識的に使いました。)
友達と外で遊ぶといっても、その時住んでいた団地は日本人研究者の多いコミュニティーだったので、我々は何の苦労も無く、日本語を話す彼女と同世代の幼い友達を獲得できたのです。ですから本当の話、その時点まで「ハロー」の意味も知らなかったのです。しかし我々は全くその事を問題と思っていませんでしたし、今でも後悔していません。
娘に何が起こったのか。娘は毎日保育園に行くと声も出さずポロリと涙を流して建物に入っていきました。私はこれも通過儀礼と思っていたのですが家内にはかなり「可愛そうだ」と思った時期も有ったようです。しかし意識的に彼女の変化を待ちました。娘の事を信じていましたから。
我々は親としてある事に気づいていました。娘は朝送り出すときにはいつも泣いているのに、帰り際にはいつも友達とニコニコしながら遊んでいるのを知っていたのです。ですから多分問題は時間が解決してくれると考えていました。そこの先生はスーザンという年配の優しく、かつ、しつけに厳しいご婦人でしたが、その方曰く「Don't worry!」。同じような子供達を多く見てきた経験多いこの先生を親として全面的に信じる事にしました。そして変化は暫くして現れてきました。送り込むときにも泣かなくなってきたのです。
一体まともな人間であれば、全く言葉が通じない環境に曝されると言う事態に対して普通であれば極度の緊張を強いられるのが普通だと思います。ましてや初めて会う友達ばかり、そういう意味では二重の緊張を強いられていたのは想像に難くありません。その子が今となっては私が聞き取るのが困難なほどのスピードで友人と電話でバカ話をしているのを見、学校の宿題で私には到底書けない自然な英語の文章で課題をこなしていくのを見るにつけ(現在、14歳で高校一年生です)、我々の選択は間違っていなかったと強く思います。
あれは一種の賭けでしたが、実はこの賭けにはある体験が前置きとしてあったのです。それはある研究者御夫妻の家庭に育つ小さな娘さんの話です。この子は親の方針で「アメリカに住んでいるから」という理由で家庭内でも英語を使って育てられていました。無論両親ともネイティブのEnglish speakerではありません。
あるときエレベーターの前でこの親子とすれ違う機会があったのですが、娘が英語で駄々をこねているのに親が悲惨な英語を使って子供の非を諭そうとしているのを見たのです。しかし全く通じている気配も無く迫力も無い。おまけに親がその後途方に暮れた顔をしているので悲壮感はいや増して見えました。既に知っていたのですが、その子はほぼ「何も」日本語を話す事が出来ませんでした。きっと親の変な英語とテレビからの英語とでその時点まで育ったのだと思います。その人たちは帰国予定のある研究者だったので、何のためにそのようなことを「しでかして」いたのか改めて聞くことも出来ませんでしたので、今となっては永遠の謎です。
私達は最初から最後まで誤った仮説に基づいた誤った実験の犠牲にされた可愛そうな犠牲者を見ていたのかもしれません。あの子が日本語を日本で獲得し正常な日常生活を日本で送り、親と普通のコミュニケーションを行っていることを強く願ってやみません。
どのような形であれ、外国で言葉の問題を避けて子供を育てる事は難しいですね。

-次回は「家内の」英語の事を書きましょう(笑)うちの嫁さんこれ読んだら怒るかな-

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