2017年2月20日月曜日

空気の読み方・研究の中で

空気を読むということが日本人の血の中には入っていると思います。

よく、KY等と言われ空気を読まない人のことをネガティブに言われることがありますが、私はどちらかと言うと空気は読んでも読んだ上で更に敢えて破っていくことか多いですね。特に自分にとって「それオカシイやろ?」と思えた場合。
己の知性の愚かさ、限定された情報のみしか得ていない状態と解っていても、どうしても与えられた説明に納得がいかない場合には恥ずかしいなどということは全く考えることなく「質問」します。

議論の結果として己の無知が明らかになりアチャーというような事になろうとも、赤っ恥をかいたとしても、かいた恥が大きければ大きい程鮮明に記憶に残り己の血肉となりますし、アイツ阿呆やと思われても全く関係ありませんので質問することで失うものは何にもありません。

反対に、質問をすることによって説明していた側の説明内容のおかしさや内容の不備、隠されている情報などが顕になることもよくあり、説明する側が慌てだすこともしばしば。説明を聞いていて”アレ?”と思うようなところがサラッと流されていたりする説明というのは日常生活のみならず、研究発表などでも本当に頻繁に遭遇するシーンなんです。

もともと前提となる数字や根拠となる事実自体がおかしかったりなんていうのも普通ですし、長い説明の中に苦し紛れに紛れ込ませている”詳しく説明したくない部分”というものを見つけ出すのも長い研究者生活の中で嗅ぎ分けるのが”趣味”のレベルにまでなってきました。いわゆる小さな矛盾というやつです。そこまでいかなくても”あいまい”なのに結論の方向性は断定的だったりと言うような話というのは発表者の思い込みと言うのが相当反映されていることが多いのです。

こんな時、大先生が発表していようと間違いは間違いと質問を浴びせていくのは正しいやり方で、これはアメリカの学会では実に普通。それに対して日本の学会では大センセイが登壇すると質問すること自体が憚られるような雰囲気もありますし、逆に若手の発表に大センセイが訳知り顔で”ハ~?”と言うような質問をすることも。そういうジジイにはなりたくないものです。

常識がどうだろうと真実は変わらず。100人中99人が右と言おうと自然科学における正解は多数決では決まりません。(だから人文科学嫌いなんですけどね。w)科学における常識なんて10年も経てば真反対なんて普通ですから。枚挙に暇さえありません。

例え間違っていようともそれを恥と思わず問い詰めていく人間は必ず必要であり、それをKYと言って一律に排除する様な人間にだけはなりたくないものです。間違いから得るものは多いのですから・・・。

KYと書いて今後は”空気読むな”とルビを振るべきか。そのためには反論するだけの実力が常に必要で、そこの研鑽を怠るとただの馬鹿になるのでしょうが。

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