2015年8月3日月曜日

国会内での対案なき反対

いつも思うんですけが、国会中継の政治の討論を見ていると本当にしょうもないがしたり顔で政治の中心で空疎な議論をやり取りをしているんだなと思えて残念でなりません。

私の感じるおかしさの震源は特に連中の議論の進め方の本質である「反対」一点張りの議論の方法です。
なんでアレほどみっともない方法論を使うことを国家の議論の中枢にいる人間が許されているのかという奇々怪々さは私の理解の外にあります。
何かに対して反論をするのならその対案をきっちり準備してから出せないようであれば、それはまともな大人の議論では有り得ないのではないかと。

文系の議論の方法は・・・と言いたいところですが、実際には元総理であった某東工卒大の菅や某東大工学部卒の鳩山という理系の学部卒の連中もあのレベルですから、訓練を経ていない人間は何系だろうと結局は討論の場に出てはいけないということなのでしょう。
彼らや民主党の多くの人間に関して言えば、討論の技術レベルはアメリカの小学校低学年レベルの討論能力なのではないでしょうかね。要するに議論そのものが始まってもいないという・・・。

どうして対案もなく、具体的な数字も提示せず主観的、感情的な議論で己の主張のみを壊れたテープレコーダーのように繰り返すのか。結局はこういった国会での討論レベルは己の選挙戦の時の連呼戦術の延長線上のレベルでしかないという事ではないのかというのが私の見立てなのですが、どんなもんでしょうか。

翻ってアメリカの共和党や民主党の大統領候補のセレクション・プロセス。これらの繰り返し繰り返し行われる公開討論における異常に厳しい討論の荒波は日本のヘナチョコ議員が同様の洗礼を受けたら多分一瞬で洗い流されてしまうような厳しいものでは無いかと考えています。
勿論、過去の歴史には実に有能な討論の達人達もいましたが、それら先人の爪の垢でも飲ませてやりたいような連中が日本の国会中継では余りにも多すぎて情けなくなります。

民主党の無残なまでの質問と討論レベルは言うに及ばず、自民党でもそう中身は変わらずと申しましょうか。
しかしそれでも、長年にわたって染み付いた無責任な民主党や旧社会党、共産党等の野党体質は反対をするにおいて「対案」を提示しないというキャラクターを固有のものとしてしまったようです。
たとえ対案「らしきもの」を提示してきたとしても、それがあのマニフェストという誰も信じない文言集だったわけですから、奴らの言う事の整合性や真実度など児戯に等しいレベルのものであることは、数年間の間に国民の血と汗がそれを証明してしまいました。

イギリスの国会での討論を見ていると、質問の攻守を行う人間のクオリティが如実に出てしまうのですが、そういった場で鍛えられた人間とそうでない人間が国際社会の激しいせめぎ合いの中で、どうやって相手との巧みな利益誘導合戦で己の国に有利な結論を引き出せるというのか・・・我が国の指導者を見ているとそこら辺りがかなり不安というのが正直なところです。

小泉ジュニアのように是非論を戦わせて堂々と相手を押し切るだけの能力を持った人物が還暦前後を含めて全く目立たないのが寂しい限りです。国内向けの寝技ばかりでは、国際的な場でのねちっこい遣り取りをどれだけ有利に乗りきれるのか、こういった能力はもっと真剣に磨かなければ中身はいいけど主張はできないということになりかねません。

政治の場では沈黙は金というの残念ながらなかなか真実たり得ないようです。

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2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...


「空気を読む」「背中で語る」「言外ににおわす」「和を以て貴しとなす」「言わなくてもわかる」
こういった言葉がある日本の悪い面が出たのが国会の議論方法でしょうね。
あとアメリカのように、小さいころから討論の訓練をしてきていないのが
大きな差となって表れているのだと思っています。

small G さんのコメント...

確かに同じカルチャーを共有する内輪の世界では寝技や空気読みが必修項目なのでしょうが、一歩外の世界にでるとそこは自分の育んだ価値観のかなり通じない魔境もあるわけで・・・。
こういうのはやっぱりおっしゃるように訓練の差なんでしょうね。

私は日本人には日本人にあった素晴らしディベート論が有って然りだと考えております。