2014年11月29日土曜日

お年寄りの悲痛な声

ベッドサイドで診察をしているといわゆる「身寄りのないお年寄り」という方に多く出会います。

世の中の多くの人にとって、家族に囲まれて幸せに過ごしている子供時代や、結婚して家庭を持ってからの社会人としての生活では何らかの「繋がり」を持って生きていると思います。
無論例外を挙げ出したらきりはないのですが、多くの人にとっては親や兄弟、そして子供や孫との繋がりというものは何にも増して大切な生きる上での要素であり、生きる意味そのものであると言っても過言ではないかと思います。

しかし、それも人生の終盤に差し掛かるといろいろな要素が重なって「独り身」や「天涯孤独」というような人生最後の瞬間を迎えねばならない人達が現れてくる事もあります。特に若いころ出鱈目をやっていた人達は親兄弟、そして子供からさえも縁を切られ音信不通となって数十年と言うのも病院の中ではごくザラにある話。

また、そうでなくとも家族に不幸が重なったり、子供が産まれなかったり作らなかったりという場合には、配偶者の死=いきなりの天涯孤独となることも多く、お金はあるけれども・・・と言った人生最後の瞬間を迎えることになることもありますから、自分の力だけでは決められない運命の要素も多々あるわけです。

多くの人がベッドの上で動けない体を縮めながら私の顔をしみじみ見つめて「先生、私はこんなに長く生きるつもりはなかったんよ・・・。はよ、死にたい。」というようなことを、口調や台詞を変えて呟いてくるのを見ると、それを安易に慰めることも出来ず、私のような人間は只々お年寄りの顔を見つめて何も返す言葉が有りません。

体が衰える以外に特に病気にならず、最終的に筋力が衰えて寝たきりになったお年寄りが、ベッドの上で日がなすることも無く、身寄りが誰一人訪れるわけでもなく上のようなセリフを呟いている。人の一生というのは結局「一人」母親の中から産まれ、最後は土へと「一人」で帰っていく道筋を逆向きに辿る旅なのだなと痛感させられます。

無常感というのはこういう時の感覚を表す言葉なのでしょうか。

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