2012年7月24日火曜日

「クビが飛んで終わり」とはいきません、、、多分

出来もしないことに対して軽々しく「自分が責任を取る」等と言うものではない。
責任という言葉は実に重いもので、約束した結果に対する道義的、民事的、刑事的云々という果てし無いくらいいろいろな種類の責任が鉄で出来た網のようにその人にかけられることを忘れてはならないと思う。責任というのは人の成長と役職やそれに付随する権限の大きさに伴ってその重さも次第に大きな荷重がかけられてくる訳で、通常、分別があり、組織や団体の長を務めている人間が、その与えられた収入や裁量の大きさの「引き換え」として責任を取らなければならないというのが大人の世界の常識。
 まず、この言葉が最も軽々しく使われるのは多分、御存知のように政治の世界?理由は簡単で、責任という言葉の内容に関して何の責任も持っていないからでしょう。 要するに責任という言葉は政治家にとって毎日の挨拶のように使う「こんにちは~」位の感覚で、挨拶という行為に責任は求められません。政治家は、いざ自分が責任を問われる番になれば当然のように万難を排してでもその責任とやらを回避する行動と言舌とることになります。枝野さん見てたら判るでしょう。w
今時に限らず、政治家に責任を求めるというのはお腹の空いた3歳の子供の眼の前に、美味しそうなお菓子を置いといて「いいか、ここにあるお菓子をたべたらお父さん怒るからね!」というようなもので、怒るよということを口にだす事からして野暮かつ意味不明で、食べた幼児を怒るのは馬鹿かアホかのどちらかと言うことで、そもそもの設定が間違い。(笑) それくらいの感覚で政治家と責任という言葉を結びつけておけば良いのだと思います。ですから大事なのは、政治家に何かを約束させる時には証文書かせて、水も漏らさぬように責任の所在をハッキリさせておくべきで、それが出来ないなら最初から約束などしないし、期待しないことがストレスを溜めない方法でしょう。犬に数学を教えるようなもの。端から無理です!
しかしこれが科学の世界になると責任をとる話の重さはぐぐっと変わって参りまして、大方の政治家のような、「生まれついての刑法犯」みたいな連中と違って、通常、責任はきちんと法律で縛られた中で十分に取らなければなりません。
今現在、京都大学の研究費流用の話がネットの上では盛り上がっているようです。京都大学大学院薬学研究科の元男性教授というのが数億円単位の預け替えを医療機器会社の間で結んでいたという話で、この人、単に教授辞めるだけでは済まないでしょうね。 行為自体も、今時まだこんな古臭い手口でこんなしょうもないことを、、、というのもあるんですが、額も異様。京都大学程度にもなれば、このくらいの金額は容易に集まるもんなんでしょうね。 研究室を預かる個人にはその運用資金を適切厳正に運用する「重い責任」が常に付帯しているわけで、これが出来ないようであれば最初から金など貰う資格自体がないはずなのですが、旧帝国大学にもなるとそうではないんでしょうね。仲良しクラブの中から配られたEASY MONEYも預け金をしておいた会社の破綻から足がついたということか。 このニュースを聞いて、心の底からやばいと思っている爺さん方も日本中に居ることでしょう。(笑)
ほらほら、早くその付け替えた金を元に戻す方法なり使い切るなり、領収書通りにものを揃えるなりしておかないと、監査が入った時にクビが飛んで、退職後の勲X等XX賞、年額YYの年金付き生活がぶっ飛びますよ~!。早く早く!
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追記:柳田先生が続報を詳細に「引用付きで」解説されておられます。興味のある方はご一読を。

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