2011年3月6日日曜日

就職難の日本とは言うけれど、、、

日本では就職難なんだそうで。
では、就職難というのは何をもってそう言うのか、そこのところが最もこの議論の核心部分だという気がします。何気なく調べたwikipediaに就職難という言葉に関してきちんとした解説が加えられていたので、ちょっと驚いてしまいました。(ここ数年のWIKIの充実ぶりには目を瞠るもの有り!)一般的に就職難といえば私は社会の経済状態が不振であるため、就職希望者に比べて需要が少なく、なかなか職が得られないこと(コトバンク)だと思っています。ウィキの解説ではもう少し深く書きこんであって、就職が困難となる状況は、景気などのマクロ経済的要因と、おおむね求職者と採用企業とのニーズのずれによって発生する要因に分かれている。採用企業のニーズには、年齢地域、専門的技能(スキル)、ソーシャルスキルヒューマンスキル給与学歴などさまざまな視点があり、これらが複合的に関連している。とも。確かにこちらのほうがより正鵠を射てますよね。今回は話を複雑化させないために、再就職その他の中途採用などは論ぜず、新卒(卒後三年くらいの人まで?)の話に絞ろうかと思います。
ここで疑問を一つ。少子化少子化と叫ばれていますが、少子化のレベルと就職口の数的変化がどうなっているのか。
上の18歳人口(黄緑)は「高卒者数」ですが、平成初期の180万人近い人口からすると、ほぼ四割も減少し、100万人を切ったかどうかという恐るべき減り具合です。これは物凄い。当然のことですが、大学というところの間口の広さが変わらなければ、大学進学者数は上昇を続けることが予想されるわけで、実際に平成初期に30%程度だった大学進学率は既に50%第半ばまで上昇するという恐ろしいほどの上昇を示しました。まあ、これも当然ですが、更に恐ろしいことにはこの少子化にもかかわらず、大学の総数は増えているということ。これに止めを刺すように大学と短大を併せた収容能力数という意味では、平成元年前後の180万程度から平成18年度前後で270万まで増え、最近の統計では増えこそはすれ減っている傾向は全く無しというのだから、畏れ入る。
高卒人口が四割減って間口が1.5倍に増えたんだから正直言って大学入学の難しさは「選びさえしなければ」平成初期に比べてほぼ半分になっているわけです。まあ、石を投げれば大学生に当たるとは言っても、昭和の初期くらいまでとは段違いの「ダイガクセイ」という肩書きを持った人間が増えたわけです。
人間の質というのはそう簡単に変わるものではないですから(ここではゆとり世代のことは敢えて横に置いておいて、、、)、同じ大学を狙うにしてもその同じ大学の同じ学部に入ってきた人間のレベルは通常は自然と「下がる」事になりますよね。
それは多分、どんな一流大学でも同じはずで、例えば同程度の教育が行われている十億の人口と一千万の人口の国のトップ一%のレベルを単純比較すれば、その人材の厚み(単純にの比較は難しいと思うけど)という点においては畢竟、単純計算では10倍の差が出てくる「可能性が高い」と私は思うのですが、統計学者のお方のお話を聞きたいものです。
だから、昔はあのX大学Y学部の人間だから大丈夫だろうと思って採用した人間の質が「???」というような感じで落ちて行くというのは、採用する側にしてみればある程度織り込んで置かなければならない「覚悟」のようなものが必要なのかもしれませんね。
もし、同じようにX大学でY学部の人間の質を同じように保とうとしたら、前大学が足並みを揃えてある等縮尺を用いた入学定員の増減を行わなければならないと思うんですけど、実際はそれとは反対に入学「可能」者はグングン増えているわけですから、箸にも棒にもかからない様な「馬鹿」が取り敢えず「大学生」を名乗ることは可能なわけです。
その後にやってくる就職口の選択の時点で、やっと人生初めての「篩(フルイ)」にかけられ、その間口の狭さにあたふたとする人が出てくるのは、今の日本の極自然の成り行きでしょうね。
バカマスゴミが提灯下げて「超氷河期でごザーイ」といったところで、そりゃ「大学生」と名乗るバカの能力の劣る集団が増えただけならその一群が就職に必要な最低限のレベルを満たしていなけりゃ、恋焦がれた会社から冷酷に弾かれるだけの話。別に同情も致しません。会社の水準を落とさないという意味で、正しい選択をしたのは会社の人事でしょうし。
DISQUALIFYされた人間がいくら文句垂れたところで、要らないものは要らないんですからそれだけの話です。当然その「余った」人達は今まで通り、必要とされる「足りない」単純労働の穴埋めに派遣されるわけで、大卒の警備員、大卒のレジ係、大卒のタクシー運転手、大卒のニートとなって需要を満たしていくわけです。それが別に良いとか悪いとかじゃなくて、今までであれば、大卒という名に値しない人達が大卒を名乗るわけですから、意味のない誇りを捨てない限りは仕事は永遠に回って来ないだろうし、自宅警備員としてPCの前に座って嘆き節を書いて同じ傷を持つ者に構ってもらうなりするか?無論、就職出来ないなら出来ないで、この手の人間に(アメリカの一部学生のように)どれほど起業の精神があるかと言われたら、起業のスピリットのみならずそれに対応する能力も含めて甚だ疑問ではありますが、、、。
http://www.yomiuri.co.jp/net/column/yougo/20080218nt0f.htm
この前ネット経由でたまたま見たんですが、日本の大学生達の企業見学会というのに出ていた就職希望学生の一団というのが居りました。しかし、残念ながら見ていて「俺が採用者なら絶対に一人も採らんな」というようなのばっかり。企業の採用者の人も採りたいけど相応しい人材が足りない、、、というのが本音じゃないのか?この現象はアメリカのIT企業でも顕著で、この国ではその人材不足をインドやパキスタンその他の、高度に洗練されて激しい競争を自国で勝ち抜いてきた理系教育修了者をH1ビザでガンガン受け入れています。(無論、国内の競争力の無い人達には極めて不評ですが、この冷酷な選別がアメリカの競争力を維持しているのを解っている人は口に出さないだけでちゃんと受け入れてます。)
中小企業の人にしても昭和40年代くらいまでのように、単純に高卒だというだけで十分賢かった人材を採れるわけでもなく、今の時代でさえ大学にも行けなかった(除く:経済的理由!)一群の人間からはなかなか性根の座った人間やキラリと光る知性を持った人間を見つけるのは難しいんじゃないのかなと思ったりするのでした。(昔は松下幸之助さん曰く「賢い丁稚はいくらでも居た」と言いますから)
まあ、今日の書き込みは一部の人からは「差別」と言われそうですが。(笑)

さっき見つけた面白いブログがありました。この人も読んでみると、かなり似た考えを書かれているみたいです。マスゴミのマッチポンプ的な見方以外はこういうのが普通なんでしょうか。w

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