2011年2月18日金曜日

障害者と社会の関係・重い話か?

なんだか、この前日本では障害者自身が演ずる障害をネタにした漫才が滅茶苦茶面白かったという記事が出ていたのだが、どうにかして視る方法はないかなと探している。
「現実の社会で障害者がどうやって社会との接点を保っている」かという問い自体が不必要なものとなるような状況であればそれが理想的だと私自身は思っている。
実は私の一つ年下の弟が生まれたときに臍帯巻絡(要るするにへその緒が首に巻き付いていたんですね)という状況で出生したため、生まれつき脳性小児麻痺と重度の知的発達障害という状況だったわけです。私自身が小さな子供だった頃のことを思い出しても、親、特に父親は弟の障害のことをなかなか受け止めることが出来ず、あろうことか私の母に向かって「お前のせいだ」というような言葉を繰り返し吐いて大喧嘩になっていました。まあ、今の私がタイムマシンを持っていたら、その頃のオヤジの眼の前に現れて、幻の右を顔面ド真ん中に捩じ込んでいたのでしょうが、幼い自分にとってもそういう事で諍いになる親を見るのは辛いことでした。
弟は私にとって障害が有るか無いかなんちゅう事は全く関係なくただの弟で、障害を持っていると言うだけの事でしたが、両親にとってはきっと将来のことや色々な本人たちの考えもあって若さ故に容易には受け入れられない現実もあったのでしょう。(と、良い方に解釈していますが!)
普段の暮らしの中で、精神、身体、言語、その他の障害が有るとまるで腫れ物でも触るように「傷つけてはいけない、悪く言ってはいけない」なんて言う自主規制を始める人達が沢山居ます。見なかったことにするように顔を背ける人もいれば、過剰な同情を示す人も。
正直言って、こういう人達の大部分は悪い人達ではないのでしょう。多分に、こういった障害を持つ人間に接する機会の少なかった若しくは無かった人達なんだと思います。
皆健康だと思っている人達は忘れがちですが、いくら健康に見えても、一生の間にはその健康な人達が重度の障害者になる確率というのは結構高いものなのです。
例えば、脳血管障害による片麻痺、歩行障害、嚥下障害、記憶障害。事故による四肢の離断や麻痺。精神分裂病その他生活に支障をきたすレベルの欝や躁、痴呆などの精神障害、循環器系の障害による運動制限、視覚障害、聴覚障害、こういった障害を含めたらそれこそ数えだしたら限が無いというほど、我々の生涯の中で何らかの障害者になる確率というのが驚くほど高いというのは容易に理解していただけるかと思います。
こんな中で、障害とどう付き合っていくかと考えたとき、私のような人間は小さい頃から必然的にそれと日常の中で向き合うことになるわけですから、答えは自然と日常の行動で表すしか無いわけです。
私の答えは昔から実にシンプルで(頭の配線が単純なのでw)、障害自身もその人を表すキャラクターそのものと考えるものでした。
私の場合弟が何かおかしな事したらゲラゲラ笑うし、小さい頃は本気でつかみ合いの大喧嘩をしていました。一切お互い手抜きなし。だからといってそれが弟を差別しているかというと、そんな事は勿論、サラサラ無くて、差別の「さ」の字も有りません、というか意識さえしていません。ハンディキャップという英単語が示すように、ハンディを被せられているのなら、それを外した同じ土俵で生活すればいいわけで、同じ土俵の上に立っているのであれば、後は何をするにも普通です。
街を歩いているときに視覚障害があるのなら、杖とブロックを利用する人もいれば、盲導犬を使う人もいる、または介護の人と一緒に歩くのが良い人も居るわけです。独立自尊の気概をもって生きているのであれば、それを尊重し、街を歩く人達が特に意識するでもなく、息をするようにさりげなく補助ができるようになったら、それは日本という社会の本当の意味での成熟だと思います。
車椅子の人を助けるのも、街で階段を降りるのに困っているベビーカーのお母さんを助けるのも一緒。有難うとは言われても、それが当然のことだからそうするだけの話で、意識もせずに手を出す準備ができるようになったらきっと街の様子はもっと刺(とげ)が無くなるんじゃないかなと思うんですが、どんなもんでしょう。
社会の中には障害を持った人がたくさん居る、そして自分たちも「いつかは」、若しくは「いつでも」障害を持つリスクが有るという「常識」が備わっている人達ならいつでもそういった紳士淑女になれるとおもうんです。障害は人であれ何であれ、生きていれば誰にでもある確率で発生するし、(それが生来のものか後天的なものかはありますが)それを周りが自然と助けられればそれでいいと思います。
ただ、私は障害を助けるという点において、一部報道されるような親なんかは到底理解しがたいところがあるのです。その例が、二十四時間喀痰吸引をしなければならないような子を普通学級に通わせるというような類の親からのリクエスト。ハッキリ言いますけど、頭おかしいです。親が負けず嫌いだとか子どもが負けず嫌いだ、処遇の差別化は嫌だというのが根底にあるのはよく解りますけど、物理的に無理なことを重ねると、本人は勿論周りも疲弊していきます。形の違うパズルのピースはそこに嵌めてはいけないのです。幸いにして、日本は相当重度の障害があっても、それを延命させることの出来る技術と施設と人材が揃っています。
敢えて、そこを使用しないというのならそうしない根拠を示し、自分たちがそれを金銭的にも補うものでなければならないと私は障害を身内に持つものとして確信します。日本は少なくとも、金銭的にはかなりの確率でそのような負担をしなくて良いシステムがあるのですから、わざわざ全体に負荷をかけるような行動は誰からの賛同も得られないでしょう。
あんまりこの事を書き出すと際限なく個別に対応しなければいけない事例が出てきてしまうのでもう書きませんけど、障害があるからといってそれを特権であるかのように使えば当然社会には受け入れられないということです。ハンディは認め、それは出来うる限りその人のために社会がシステムとしてハンディを取り除く、しかし障害に甘えること無く生きていく道を障害者自身、若しくはその手助けをする側が模索するのも大事な仕事だと思います。
最後に一つだけ。
今の医学でどうしようも出来ないような障害を持つ人間をあからさまにあげつらうような連中は基本的に脳の質が子供のままか親に正しく育てられなかった可哀想な人達です。気の毒な彼らにこそ真の憐憫の情を!

障害は我が事なのです!

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